2014年3月11日火曜日

世界に広がる神の祝福*アルプスの少女ハイジの作者ヨハンナ シュピリ2


おもしろブログ 特集

世界に広がる神の祝福*アルプスの少女ハイジの作者 ヨハンナ シュピリ2



おんじとハイジが、教会を訪れ、村の人達と仲良くなった後のことである。

再びクララが、アルムの山に静養に来ていた。
ハイジが、クララの面倒ばかりみて、ペーターはハイジにかまってもらえない。
そこで、頭にきたペーターは、クララの車椅子をアルムの山から下に突き落としてしまう。車椅子が無くなれば、動けないクララは帰るしかないと思ったのである。

おんじに「車椅子を見なかったか?」と聞かれた時も嘘をつくしかペーターはなかった。
良心がさいなまれるペーター。そのうち、ばれて罰を受けるのが、どんどん怖くなって行く。
胃がチクチクし、食べ物も喉を通らなくなり、うんうんと唸るしまつ。
フランクフルトから、クララのおばあさまと父親が尋ねて来た時には、もう限界だった。

しかし、おんじから、車椅子を突き落としたのがペーターであることを聞いたクララのおばあさまは、こんなふうに言ったのだった。

「…かわいそうに 、あの子をこれ以上とがめだてするのはよしましょう。公平に考えなくては。フランクフルトからよそ者がやって来て 、あの子からハイジを何週間も取り上げたんですもの。……あの子は腹立ちまぎれに仕返しをしてしまったわけですよ。
まあ、少し馬鹿なことではありましたけれどね。 でも、腹が立てば、誰だって 馬鹿なことするものですわ。」
そう言って 、おばあさまはペーターのところ に戻って行きました。
ペーターはまだ、ぶるぶるがたがた、ふるえていました。
おばあさまはもみの木の下のベンチに腰をおろすと 、優しく言いました。
「さぁ、こっちへいらっしゃい。私の前にいらっしゃい。ちょっと話があるの。ふるえるのはやめて、よくお聞きなさい。いいこと?おまえは車椅子を突き落として壊してしまったわね。これは悪いことね。それをおまえはちゃんと知っていて、だから罰を受けなくちゃいけないこともわかっていた。そうでしょ。そして それが怖くて 、おまえがしたことが誰にも知られないように、ずっとびくびくしていたのよね。でもね、いいこと、何か悪いことしておいて、誰にも知られないと思ったら大間違いなのよ。神様は 何もかもちゃんとご覧になっているの。そして 悪いことしておいて 、隠そうとしているのご覧になったら神様は、その人のなかにいる小さな番人の目を急いで覚まさせるのよ。その番人というのはね、誰でも生まれてくるときに 神様が心の中に入れておいてくださるんだけど、その人が悪いことをするまでは眠ってるの。その番人は小さなとげを手に持っていて、目を覚まされると、それでちくちくつつくものだから、その人はもうじっとしていられなくの。…‥だから、その人は、もう怖くてびくびくりしてばかりで、嬉しいことも楽しいことも何にも無くなるの。………それからもうひとつ、おまえは考えちがいをしていたのよ。……ごらんなさい 、おまえが困らせようと思ってした悪いことが、された人にとっては、かえっていい事になったじゃありませんか!……神様は誰かが悪いことをしようとすれば、それがその相手にとっていい事になるように、ご自分の手で変えておしまいになるの。悪いことをした方は、おいてきぼりにされて 損をするだけ。…」<原作*ヨハンナ シュピリ著*日本語ハイジ上・下.上田真而子訳>

正直に認めたペーターは、やっと安心し、それでも周りの人達に愛されてることを知った。そしてまた、自分の失敗や過ちを、隠す必要がないことも知ったのだった。

アルプスの少女ハイジの原作者ヨハンナ シュピリが言いたかったのは、こういうことではないだろうか?
”神は、憐れみ深く、恵みに満ちた方なので、私たちが正直にやってしまった間違い、すなわち罪を告白すれば赦してくださる。〃<聖書.第1ヨハネ1:9参照>

神の前で正直になるということは、神に心が癒され、回復するということである。
“主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。〃<イザヤ40:31>

放蕩息子の罪は、原罪といわれ、神の愛に背を向け自分勝手な道に歩んでいること。ペーターの話は、咎といわれる。咎とは、嘘をつく、腹を立てて人をののしる、盗む、姦淫など、具体的な罪による行いである。

私たちは、色々な失敗や過ちを犯してしまう。それが人間である。
私たち人間の弱さを御存知の神は、そのひとり子イエスをこの世に贈られた。
そしてイエスキリストは、私たちの過ちや失敗も含めて、全ての罪を背負い十字架にかかられ、よみがえられたのである。
私たちが、神の御前で正直に言うならば、すべての罪を神は赦してくださる。
そして、イエスが復活されたということは、信じる者には新しい命が与えられ、いつでも新しい人生のスタートがきれるということである。

”黄金の太陽は、喜びと幸いに満ち
その輝きをもって、私たちの地上に清らかな愛の光を注ぐ

私の頭も手足も、そのもとに横たわる
けれども、今立ち上がって、晴れやかに、ほがらかに
面を上げて、空を仰ぐ

私は仰ぎ見る
誉れある神の御わざを
神の御力のいかに強く、偉大なるかを
私たちに教えんがための、神の御わざを

そしてまた、神を敬う者が
いつの日か、安らぎのうちに
はかなく、うつろいゆくこの世に
別れを告げて、立ち去るとき
行くべきところを、教えたもう

すべては、過ぎ去ってゆく
だが、しかし、神のみは
ゆるぎなく、おわします
その御心、御言葉、御力は
永久の礎に、基づきしもの

神の御救い、御恵みは、決して、誤ることなく
耐えがたい、心の痛みを、いやしたまいて
私たちを、永久に守りたもう

苦しみも悲しみも、いつか終わりが来る。
わきたつ海は静まり、ざわめく風も凪いで
待ち望みし、陽は輝く
天の園生に乞い願う
心は、はや、そこへと向かう
<*原作ヨハンナ シュピリ*上田真而子訳>

2014年3月9日日曜日

世界に広がる神の祝福*アルプスの少女ハイジの作者ヨハンナ シュピリ

おもしろブログ 特集

世界に広がる神の祝福*アルプスの少女ハイジの作者ヨハンナ シュピリ


アルプスの少女ハイジは、雄大なアルプスの山々が広がるスイスの女性作家・ヨハンナ シュピリによって書かれた物語である。
ヨハンナ シュピリは、牧師の娘として生まれた。そんな彼女が書いたアルプスの少女ハイジには、神の愛が時には優しく、時には力強く描かれている。

アルムおんじは、人づき合いが嫌いで、心がかたくなだった。
おんじが若い頃、お酒や賭博に溺れ、親の家屋敷を手放すことになった放蕩ぶりは、人々の目によくは映らなかった。
また、人々から人殺しの疑いまでかけられて、おんじの方から心を閉ざし、人が嫌いになってしまったのだ。
だから、おんじは人里離れた高い山の上に、家を建てて住んでいたのだった。

そこへハイジが預けられるようになる。
両親を亡くしたハイジの面倒をみるのを、ハイジの叔母がいやになってしまったのだ。

ハイジにとっても、おんじにとっても、お互いが必要だった。
ハイジにとっては、親のように面倒をみてくれる相手が、孤独なおんじにとっては、愛する相手が必要だったのかも知れない。
人は時として、与えられるばかりでなく、自分も必要とされている方が居心地が良く、心を開きやすいことがあるものだ。
だから、アルムおんじにとって、ハイジは神の愛による贈り物であったかもしれない。

アルプスの山に囲まれた大自然の中で生活するうちに、ハイジは天真爛漫な子どもへと成長して行く。やがて、おんじからも笑顔が出始め、優しい心を取り戻すようになって行くのである。

そんな中、車椅子に乗ったクララがやって来る。
おんじの愛情とアルプスの自然から与えられる恵みの中で、ハイジとクララとの友情が築き上げられて行く。
このままの生活が続くかと思われたが、やがてハイジは、フランクフルトにあるクララの家であるゼーゼーマン家に引き取られて行ってしまう。

フランクフルトの町でのハイジは、おんじとの山の家での生活が恋しくて夢遊病にかかるほどだった。
そんなハイジは、クララのおばあさんから、悩みごとがある時は神に祈ることを教わり、楽しみながら聖書を読む事も覚えたのだった。
やがてハイジは、おんじの居るアルプスの山の家に帰ることになり、再び元気を取り戻す。

アルプスの山の家で、ハイジがおんじに、フランクフルトでの様子を話している時だった。
ハイジは、一冊の大きな本を家から取って来るとおんじに読み始めた。ハイジは、聖書の話を人に読むことができるほどに成長していたのである。
ハイジが読んだのは、奇しくも放蕩息子の話だった。

そして、ある時、おんじは、心から神に祈るのである。
「天のお父さま。私は罪を犯しました。天におられる私たちの父にも、私の父にも、私はもう息子と呼ばれる資格はありません。」

おんじの心は本当に晴れやかだった。おんじは、自分自身を心から本当に愛してくださる神に、しっかりと受け取められたのだから。
そして、朝の光の中、おんじは嬉しそうに、ハイジと共に教会へと足を向けた。

おんじの様子が以前と違うのを見てとった教会の牧師は言った。
「真の教会に行きましたね。」
礼拝の後、おんじは、周りの人達と打ち解けあって挨拶をかわし合った。
人々が、おんじの回りに集まって来て握手をしようと我先にと手を差し出したのだ。
「うれしいなぁ。また俺たちの仲間になってくれて。」「ずっと前から、また話をしたいと思っていたんだよ。」そうやって、あちらこちらから声をかけられたおんじは、まるで村一番の人気者のようだった。
ハイジは、おんじをずっと見つめていた。「おじいちゃん。今日はどんどんステキになっていくね。こんなの初めてだね。」うれしそうにハイジは言った。
おんじもにっこりと笑いながら言った。「そうだな。わし自身も信じられないくらい、今日は気持ちがいいんだ。神様と人と仲良くするのが、こんなに良いものだとはなぁ。神様は、ちゃんと私を見てくれていて、ハイジ、おまえをこのアルムの山に連れて来てくださったんだ。」

放蕩息子だったおんじを温かく受け取めた神、また真の教会とはのようなものであるかを、聖書を読めば伺い知ることができる。

ハイジが読んだ放蕩息子の話くルか15:3ー32>
ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前をください。」と言った。
この息子は、まだ父親が生きているのに財産をもらいたいと、父親に歯向かって言ったのだった。
しかし、それでも父は、財産を兄と弟のふたりに分けてやった。

それから、幾日もたたないうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅だった。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
それで、その国のある人の元に身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、ブタの世話をさせた。
彼は、豚の食べるイナゴ豆で 腹を満たしたいほどであったが、誰一人彼に与えようとはしなかった。
彼の父親のところには財産がたくさん有り、幸せに暮らしていたのに、今では彼はあまりの違いの生活に耐えるしかなかった。

しかし、我に返った時、彼はこう言った。
「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。
お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」

こうして彼は立ちあがって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は早くも息子を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。」

ところが父親は、しもべたちに言った。
「急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせなさい。
そして子牛を引いてきてほふりなさい。食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが 生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
そして彼らは祝宴を始めた。

この息子の父親は、家を出て行った子どもが、自分の元に帰って来るのをずっと待っていた。
父は、温かく息子を迎える。そして、自分に出来る限りの最高の物を、愛と共に息子に与えたのだった。
真の教会とは、このような所。
神は私たちを愛し、温かく迎えてくださる。
そして、過去の罪は赦され、神は二度と思いだされない。

世界に広がる神の祝福*ハンサムウーマン新島八重

おもしろブログ特集
世界に広がる神の祝福*ハンサムウーマン 新島八重



ここ日本では桜が有名である。桜の中に、八重桜というのがある。
桜は、春に開花し、美しい花ビラが風に舞うことで有名である。日本人は、長い冬を耐え春に開花する花、桜に復活を思う。
その桜の花ように、日本の国に、復活されたイエスキリストを広めたのが、新島八重であった。

新島八重は、ニックネームがハンサムウーマンとして知られる。
娘時代の八重は、結構おてんばで、鉄砲の師である父に習った銃の技術を用い、男装をして会津で戦争に参加するほどであった。
しかし、敗戦と同時に、自らの生き方を模索するようになる。

そんな中で、京都にいる兄の山本覚馬より勧められ、アメリカ人の宣教師が開いていたバイブルクラスに参加する。
神の愛を知った八重は、喜びに満ちて、教師として働いていた女学校で聖書を配ったが、その為に、迫害を受けるようになる。

しかし、それも神の御心だったのか、その後八重は、新島襄と出会い結婚し、日本の学生達にキリスト教を広める為に、同志社大学を設立する。

新島襄は、1864年アメリカに渡り、その地でイエスキリストを信じた彼は、日本の国に聖書を土台とした学校を設立したいという情熱をもっている人物 だった。
そんな彼と出会い、八重の人生は新しい転機を迎える。
新島八重は、夫新島襄が、聖書を土台とする学校を設立という志を貫いて行く中、教師として夫を支え続けたのである。
武道にもたけ、知的な彼女は、その頃ニックネームをハンサムウーマンと呼ばれるようになる。
そして、夫新島襄と共に、日本各地を周り、イエスキリストを宣べ伝えながら生涯を終えた。

新島襄、八重亡き後も、同志社大学は学生たちで賑わい、同社大学のリトリートセンター では、キリスト教会のキャンプや聖会が行われている。
神の御心は 、私たち人間には計り知れない。
「全ての事を益とすることができる神。」新島八重の人生に、そんな神を思う。

神は、過去の出来事の全てを有益なものに変えることができる、力と愛に満ちた方なのである。
“神を愛する人々、すなわち、神の御計画 に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。〃<ローマ8:28>

世界に広がる神の祝福*スヌーピーの産みの親 シュルツ氏

おもしろブログ 特集

世界に広がる神の祝福*スヌーピーの産みの親*チャールズ ・モンロー ・シュルツ


スヌーピーは、主人公のチャールズ ブラウンといつも共にいる。
そして、なぜかスヌーピーは、チャーリーブラウンの心がよくわかるのだ。
時にはクールを決め込むスヌーピー。しかし実は、熱い心の持ち主でチャーりーブラウンや周りの子供たちを情熱的に愛している 。
そしてスヌーピーは、ユーモアのセンスに富んでいる。
犬であるスヌーピーは、人より謙遜な者として描かれ、小さなキリストとして書かれている。
キリストの意味は、メシアと同じで救い主を現わしている。

しかし、食べ物に目がなく、イタズラ好きでしばしばブラックユーモアを投げかけたり、時には臆病、知ってか知らずか何にでもちょっかいを出してしまう所なんぞは、キリストを信じるクリスチャンの姿を表しているスヌーピーなのである。

スヌーピーの産みの親であるチャールズ・モンロー・シュルツ氏は、イエスキリストと人々の仲介者、すなわち橋渡し役でありたいという志をもって、スヌーピーの新聞連載に挑んだのだった。

「ひどく悩んだり心が落ち込んだりした時でも、そこから立ち直ることができたのは神のおかげだったことに気がついた。」とシュルツ氏は言う。<The Gospel According to Peanuts *ロバートL.ショート著>より。く日本語・スヌーピーたちの聖書のはなし*笹野洋子訳>

シュルツ氏は、若い頃にイエスキリストに出会い、聖書の真理こそ本物だと思った。
そんな彼は、スヌーピーの本の中で、聖書の話をおもしろおかしく紹介する。
そして、さりげなく、イエスキリストの愛と永遠の命の世界を紹介するのだ。

スヌーピーの本 ピーナッツを読んでいると、笑いの中で自分自身の本当の姿に気づいたり、それでいて、ありのままの自分に自信を持たせてくれたりと、シュルツ氏の愛まで伝わってくる。
シュルツ氏は、神によって造られた人間がありのままの姿で愛される存在であることを、直接的ではなく、さりげなく芸術的に語ったのである。

イエスキリストが、永遠の命に至る道を開かれた。
神の子イエスがこの世に来られ、私たちの罪を負い、十字架にかかられ死んで後、三日目に復活されたのは、私たち人類に永遠の命を与えるためだった。
そのグッドニュースが爆発的に世界に広がる流れの中、イエスキリストを信じたシュルツ氏始め、たくさんの人々が、永遠の命と天国に行ける道を宣べ伝えるようになったのである。
誰でも、イエスキリストを信じるなら、神から永遠の命を与えられ、天国に行けるのである。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」<使徒の働き16:31>

2014年3月7日金曜日

世界に広がる神の祝福*平和の祈り.フランチェスコ


おもしろブログ特集

世界に広がる神の祝福 聖フランチェスコ

平和の祈りとは、イエスキリストを信じたフランチェスコという人物によって祈られた有名な祈りである。

マザーテレサが、最も愛した祈りと言われ、また、天使にラブソングといいう映画の中でも歌わてれいる。

平和の祈り
主よ。私を平和の道具としてください。
憎しみのあるところに、愛を。
私が持って行くことができるようにしてください。

争いがあるところに赦しを。
分裂があるところに一致を。
疑いのあるところに信仰を。
偽りのあるところに真理を。
絶望のあるところに希望を。
悲しみのあるところに喜びを。
暗闇のあるところに 光をもたらすことができるように。

主よ。私が慰められることよりも 慰めることを。
理解されるよりも理解することを。
愛されるよりも愛することを求めるようにしてください。

なぜなら、私たちは与える時に与えられ、赦す時に 赦され、自分を捨てる時にこそ 、永遠の命に生きるからです。


イエス キリストは、平和の君として知られている。
この祈りの中には、イエスキリトがどのような神であるのかが示されている。
そして、イエスキリストは、彼を信じた人々を通して、今なお、世界の人々に、愛を現されているのである。

“それは私達の目をひらいて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、イエスキリストを信じる信仰によって、私達に罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって永遠の天の御国を受け継がせるためである。〃<使徒の働き26:18より>

世界に広がる神の祝福*マザーテレサ


おもしろブログ特集

世界に広がる神の祝福 マザーテレサ



「わたしは渇く。」これは、マザーテレサの前に、イエスキリストが現れて言った言葉である。
それからマザーテレサは、貧しい人たちの為に尽くすようになった。
インドでは、食べ物に飢え渇いている人々のために。また、アメリカでは、愛に心が飢え渇いている人々のために。

「わたしは渇く。」これは、イエスキリストの十字架上の言葉である。
イエスキリストがその十字架で、息を引き取られる直前の言葉である。
“この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、わたしは渇くと言われた。〃<ヨハネ19:28>
これは、イエスキリストが、「人々の愛し合う心に渇く。」と言われたのだ。といわれている。

イエスのキリストの心は、貧しい人々に対する愛で満ちていた。
貧しい人々にgood news、すなわち福音を伝えるために、イエスキリストはこの世に来られたのだから。

インドでは、食べ物に貧しい人々のことを顧みられ、アメリカでは、愛に飢え渇いている人々の心を顧みられたイエスキリストは、全ての人々の心の必要をご存じである。
どの国にいても、どんな状況にあったとしても、イエスキリストは、必ずその必要に答えてくださる方なのである。

”神である主の霊が、わたしの上にある。
主はわたしに油を注ぎ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
すべての悲しむ者を慰め、
シオンの悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を
着けさせるためである。〃<イザヤ61:1ー3>


レ ミゼラブル


おもしろブログ特集

レ ミゼラブル


主人公のジャンバルジャンは、たったひとつのパンを盗んだために、長い服役に屈する。
彼は、刑を終えて出て来たが、人々の反応は冷たく、ジャンバルジャンの更正、将来の道は閉ざされたままである。

暗いジャンバルジャンの心に、愛という希望の光を灯したのが、ある教会の司祭であった。
あくまでもジャンバルジャン を信じ、ジャンバルジャンの将来に期待した、司祭の愛が、ジャンバルジャンを変えたのだった。
その後、彼は、神と人とに仕える生涯を送った。
神と人とを愛し抜いたジャンバルジャンの最後は、清々しいものであった。

ジャンバルジャンを変えた神の愛、イエスキリストの恵みとは、
決して、見捨てない神の愛。
たとえ、父母が見捨てても、主なる神は、見捨てない。

”愛はすべてを信じ、全てを期待する。”聖書の第一コリント13:7の御言葉である。

ジャンバルジャンが、たったひとつのパンを盗んだことよりも、世の中や人生に失望し、ひねくれた彼の心の方が問題だったように思う。
そんな彼のかたくなな心を溶かす事が出来たのは、教会の司祭を通しての、神の愛の他にあり得なかったのである。
そこに、レミゼラブル の作者ヴィクトル ユーゴーの神への信仰を垣間見る。