2013年5月31日金曜日

イスラエルは主のぶどう畑Ⅰ

 イスラエルは主のぶどう畑

 

 イスラエルの歴代の王であったソロモン王の時代、死海の西岸に位置するオアシスであるエン・ゲディの地では、ぶどう畑が豊かに栽培されました。 〈参照・雅歌1:14
 聖書には、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家〈イザヤ5:7〉と書かれてあり、夜も昼もユダヤ人イスラエルの人々を、主御自身が愛され見守っておられます。

 ダビデの子孫として誕生された王なるメシヤ・イエスは、万軍の主である王としてこの終わりの時、イスラエルの残りの民の為に、大路を備えられます。昔、イスラエルの民がエジプトから上って来た日に備えられたようにです。そして、いのちの書にしるされている者をすべて救われるのです。
 
その日、主は、鋭い大きな強い剣で、

逃げ惑う蛇レビヤタン、

曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、

海にいる竜を殺される。

その日、

麗しいぶどう畑、これについて歌え。

わたし、主は、それを見守る者。

絶えずこれに水を注ぎ、

だれも、それをそこなわないように、

昼も夜もこれを見守っいる。〈イザヤ27:1-3 
 
Isaiah53 abcdz2000

蛇レビヤタンレビヤタンは、神によって裁かれる神に敵対する勢力、アッシリヤ・バビロニアの象徴とされ、ヨブ記41章では、すべての誇り高い獣の王として書かれています。

〈詩篇74:14〉ではエジプトを指し、モーセに率いられてイスラエルの民が、過越の小羊の血によってエジプトの奴隷状態から解放され、海の真ん中のかわいた地を進ん行った時にも、主は、レビヤタンの頭を打ち砕き、海の巨獣の頭を砕かれたと言っています。

海にいる竜〈エゼキエル32:2〉の御言葉に出てくる海の中のわには、別訳では竜でエジプトのパロ王です。又、〈ヨブ記26:12.13〉に出てくるラハブは、海の怪獣を意味し象徴的にはエジプトに与えられた総称です。

神は御力によって海をかき立て、

神の英知をもってラハブを打ち砕く。

その息によって天は晴れ渡り、

御手は逃げる蛇を刺し通す。〈ヨブ記26:12.13

 

 神の英知と、主の御手の剣である御言葉が、蛇レビヤタンも海にいる竜も刺し殺されると、聖書は言っています。

 

イエスキリストの勝利と報復

 

 イエスが、最後のアダムすなわち人として、十字架の死に至るまで神に従い通されたので、サタンの頭(暗闇の主権と支配)は、すでに踏み砕かれました。

 イエスキリストは、十字架の死と復活という完全な勝利によって、最初のアダムがサタンに騙し取られたその権威を奪い返されたのです。今やキリストがすべての支配と権威のかしらです。〈コロサイ2:10

  イエスキリストの十字架の勝利と、復活のいのちの力によって、悪魔がもたらした死と暗闇の支配は、もはや打ち砕かれました。
 神は、イエスによって、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子イエスの支配の中に移してくださったのです。

 主は、イエスキリストの十字架の血による新しい契約をユダヤ人イスラエルの民と結ばれ、永遠に変わらね愛をもってユダヤ人を贖われます。その時、神との平和の契約が実現します。〈参照イザヤ54:5-10

 ユダヤ人が、主イエスキリストの十字架を仰ぎ見る時、主の十字架の勝利か輝き、主の栄光が全地に満ちるのです。

時が来れば、ヤコブは根を張り、

イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、

世界の面に実をみたす。〈イザヤ27:6

2013年5月30日木曜日

主はエデンのように潤される

いのちの泉の源なるイエスキリスト

 
 
                                 abcdz2000
 
   イエスキリストが再臨された時、主の宮から湧き水が流れ出て、生き物が生息できない死の海も、荒野や砂漠のように渇ききった所にも命の水が流れ、すべてのものが生きる。又、その時はエルサレムの回復の時であり、ユダヤ人イスラエルの回復の時でもあります。
   御自身の命を捨てるほどに人類を愛され、十字架で私たちの罪を負われ、死んで復活されたイエスキリストこそ、永遠のいのちの源なのです。
 
  
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

 私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。

 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。 

 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海(死海)に、他の半分は西の海(地中海)に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。

 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名はただ一つとなる。

 全土はゲバからエルサレムの南リモンまで、アラバのように変わる。〈ゼカリヤ14:3-9 
 
 
  アラバの別訳は、平地で『エデン』を意味していると思われます。
『エデン』ヘブル語でエデンとは優美・楽しい・喜ばしいの意味ですが、本来はシュメール語で「平地」を意味します。エデンと言うアッカド語のエディヌと同じだとされています。

〈ヨエル3:18〉の主が再臨される時の御言葉では、主の宮から泉が湧き出でシティムの渓流を潤すと書かれています。

 シティムは、イスラエルの民が40年間、荒野を放浪し、約束の地カナンへの入国直前に最後に宿営した場所で、神の恵みを受ける不毛の荒野の象徴とされています。シティムは、ヨルダン川を挟んでエリコの対岸にあたります。

 ヨシュア率いるイスラエルの民が、シティムを出発しヨルダン川を渡る時、全地の主の契約の箱が先頭に立ちました。

 イスラエルの民が約束の地に入っていく時、主が先頭に立たれたのです。

 その時期ヨルダン川は岸いっぱいに溢れ簡単に渡ることがてきない季節なのですが、全地の主である主の契約をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせき止められました。

 そして、上から流れ下る水はつったって、はるかかなたの町アダムのところでせきをなして立ち、イスラエルの民はエリコに面するヨルダン川を渡って行ったのです。

 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川のかわいた地にしっかり立つうちに、イスラエル全体が、かわいた地を通り、ついに民は約束の地に入って行ったのです。

 イエスキリストが再臨される時、神の民イスラエルへの平和と繁栄の全ての霊的祝福が成就します。

 神が、キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって、イスラエルを祝福され、エルサレムの町は世界の国々の間で、主にとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなります。 

 私たち異邦人も、神のイスラエルとして〈ガラテヤ6:16〉、イエスキリストにあって天にあるすべての祝福をもって祝福されています。〈参照エペソ1:3 

まことに主はシオンを慰め、

そのすべての廃墟を慰めて、

その荒野をエデンのようにし、

その砂漠を主の園のようにする。

そこには、楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。〈イザヤ51:3

 

 

 

2013年5月29日水曜日

ホセア書 子羊の婚姻Ⅱ・定めの時

 
 その日、わたしは答える。主の御告げわたしは天に応え、天は地に答える。

地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え、

それらはイズルエルに答える。

わたしは彼(直訳彼女)をわたしのためにわたしのために地にまき散らし、

『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。〈ホセア2:21.22は、ユダヤ人と異邦人と両方の救いを指しています。

  イエスは、イスラエルの国民のために死なれ、また、ただイスラエルの国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死なれました。〈参照聖句ヨハネの福音書11:51.52〉 神は、恵みとあわれみによって、主の名で呼ばれるユダヤ人と異邦人のすべてを救われます。〈参照聖句ローマ9:24-26

 ダビデが信じた主が、復活による永遠のいのちを与えることができる方、すなわち、神が死者の中からよみがえらせた方、イエスキリストであることを、イスラエルが聖霊を注がれて知る時が来ます。

 それは、神がイスラエルと、ほふられた子羊イエスの十字架の血によって新しい契約を結ばれる定めの時でもあります。〈参照聖句ヘブル8:8-1210:15.16.エレミヤ31:31-34

 主が、イスラエルが若かった時にイスラエルと結んだ契約を覚え、イスラエルと契約を新たにする時、イスラエルはイエスキリストが主であることを知ると、聖書は言っています。〈参照エゼキエル16:60-62

 その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みにこよう。〈ホセア3:5

 イスラエルが、主イエスキリストに立ち返る時、神はイスラエルを再び繁栄されられます。

わたしはイスラエルには露のようになる。

彼はゆりのように花咲き、                    

ポフラのように根を張る。

その若枝は伸び、

その美しさはオリーブの木のように、

そのかおりはレバノンのようになる。

彼らは帰って来て、その陰に住み、

穀物のように生き返り、

ぶどうの木のように芽をふき、そのレバノンのぶどう酒のようになる。〈ホセア14:5-7




 ゆりのように花咲きは、イスラエルの民が復活しキリストのかおりを放ちます。ポフラの木は、地下深くまで根を張り、十分な水と養分を吸っていのちがみなぎっている象徴です。オリーブの木は、一度、実をつけると実を結び続けるそうです。レバノンは、高い山脈で石灰岩の白さと半年間頂上の峰峰に残る雪の白さで光輝いています。イスラエルの民は、救われて、罪の赦しと復活のいのちを受け、光の子として白く輝きます。万軍の主のぶどう畑はイスラエルです。〈イザヤ5:7

 イスラエルが、新しい契約であるイエスキリストの十字架の血によってきよめられた時、芳香な香りの高価で尊いレバノンのぶどう酒のようになります。 イスラエルがイエスキリストを信じる時、復活した彼らが香り高いゆりのように花咲き、いのちに溢れ豊かな実りに預かり、光輝くように充実した新しい人生を送ることを、神はイスラエルにホセア書を通して約束しておられます。

時がついに満ちて実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。〈エペソ1:10-

 ホセア書小羊の婚姻・信仰による義

 

わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。

正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。

わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。

このとき、あなたは主を知ろう。〈ホセア2:19の御言葉は、
 
主の恵みによる十字架の贖い、ほふられた小羊イエスキリストの婚姻である永遠の契約を指しています。 
 

信仰による義


 ホセア書は、神の無条件の愛、偉大な神の愛で有名です。

 ホセアは、行って「姦淫の女をめとれ」との、主の命令に応じ、姦淫の女ゴメルを妻にします。しかし、それまで神を信じることなく、姦淫の罪を犯す中で恋人達との快楽と彼らが与えてくれ食事や衣服に溺れ、心を奪われて生活していたゴメルは、夫に愛されていながら先の生活に戻ろうと家を出ます。

 しかし、荒野をさまよいながら孤独と寂しさの中で彼女はこう思います。「私は行って始めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも幸せだったから。」。

 この時になって初めてゴメルは、快楽や物質に囲まれた生活よりも、夫に愛されていた愛だけが自分を幸せにしてくれることに気づいたのです。

 主は、言われます。それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて、荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷(裁きの谷)を望みの門にしよう。〈ホセア書2:14.15

  その頃、主はホセアに仰せられます。「再び行って、夫に愛されていながら、姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶとうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」

 そこで、ホセアは、もはや奴隷となってしまっているゴメルを銀15シェケル、大麦1ホメル半の犠牲を払って買い戻します。そこで裏切られておきながらホセアはゴメルに言います。「これからは長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」

 私を封印のようにあなたの心臓の上に、

封印のようにあなたの腕につけてください。

愛は死のように強く、

ねたみはよみのように激しいからです。

その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もその愛を消しことがてきません。〈雅歌8:6.7

 主は、ホセアのゴメルへの言葉を通して、私たちにもこのように言われているのではないでしょうか?
 「もうこれからは私の愛の中にいなさい。私の愛以外のものに目を向けたり頼ったりしてはいけないよ。私は限りない愛をもってあなたを愛しているのだから。」

  ホセアのゴメルに対するような一方的な愛と赦しをイエスキリストによって受け、私たちの信仰生活は始まりました。

 私たちの罪のために十字架につけられ死んで葬られ三日目に甦られたイエスキリストを信じ、罪赦され義とされたこと、これが私たちの信仰生活と喜びの土台です。

 しかし、もし私たちが、イエスキリストの十字架の愛にとどまりきれず、気付かないうちに信仰から外れ律法を守りきれているかどうかで判断してしまうと、救いの喜びは失いがちす。

 ですから、パウロは〈黙示録2:4でエペソの教会に「あなたがたは初めの愛から離れてしまった」と警告し、〈ガラテヤ3:2「あなたがたが御霊を受けたのは律法を行ったからか、それとも聞いて信じたからか」と警告しています。

 私たちは、イエスキリストの十字架の愛に信頼し、主の救いと義認(主によって正しい者とされた事)は、あくまでも信仰によるところに踏みとどまらなければなりません。 

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。〈ローマ1:17 

 ホセア書を通して、私たちは神の無条件の愛や一方的な恵みを見ることがてきますが、もう一つの側面、律法を与えられ、それを行うべきとされていたイスラエルの民がどうなっていったがを見ることができます。

 律法の本質は、神を愛し人々が互いに愛し合うことでした。しかし、彼らの心は神から遠く離れ、礼拝や祭りも形だけのものとなってしまいました。

 列王記に書かれていますが、彼らは、エジプトの奴隷状態から解放され奇跡を体験し、約束の地で繁栄していたにもかかわらず、神を忘れ偶像バアルに仕え息子や娘達を火の中にくぐらせ占いやまじないを行っていたのです。
 イスラエルの民は、主の怒りを引き起こしついにはアッシリヤ捕囚となってしまいます。

 神の民は、ゴメルのように不信心と快楽、物質中心となってしまったのです。

 だからこそ、父なる神は、そのひとり子イエスを私たち人類に(ユダヤ人にも異邦人にも)与えてくださったのです。




イエスキリストは、私たちを愛するがゆえに律法に違反する罪人、私たちの身代わりとなって十字架で刑罰を受けてくださり律法を成就してくださったのです。
 私たちには、そのイエスを信じる信仰によってパリサイ人・律法主義者に勝る神の義がすでに与えられているのです。私たちは、その神の恵みを無駄にしてはなりません。
 私たちに必要なのは、イエスが十字架で苦しんでまでも与えてくださった神の義を受け取り、もはや律法から解放されて喜んで自由に生きること。イエスキリストの愛を豊に受け取り、夫と妻のように一つとなり親密な愛の関係を築いて行くこと。そうすれば、私たちの心は豊かな実を結ぶようになっていくのです。
  弱さに悩めばイエスの十字架にあって、おりにかなった助けを神から受けるために、ありのままの姿で大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
 そうすれば、主は来て救いを、愛と恵みの雨を豊かに注いでくださいます。
正しい者の道は、夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。〈箴言4:18