ホセア書小羊の婚姻Ⅰ・信仰による義
“わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。
正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。
このとき、あなたは主を知ろう。”〈ホセア2:19〉の御言葉は、
主の恵みによる十字架の贖い、ほふられた小羊イエスキリストの婚姻である永遠の契約を指しています。
信仰による義
ホセア書は、神の無条件の愛、偉大な神の愛で有名です。
ホセアは、行って「姦淫の女をめとれ」との、主の命令に応じ、姦淫の女ゴメルを妻にします。しかし、それまで神を信じることなく、姦淫の罪を犯す中で恋人達との快楽と彼らが与えてくれ食事や衣服に溺れ、心を奪われて生活していたゴメルは、夫に愛されていながら先の生活に戻ろうと家を出ます。
しかし、荒野をさまよいながら孤独と寂しさの中で彼女はこう思います。「私は行って始めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも幸せだったから。」。
この時になって初めてゴメルは、快楽や物質に囲まれた生活よりも、夫に愛されていた愛だけが自分を幸せにしてくれることに気づいたのです。
主は、言われます。“それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて、荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷(裁きの谷)を望みの門にしよう。”〈ホセア書2:14.15〉
その頃、主はホセアに仰せられます。「再び行って、夫に愛されていながら、姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶとうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
そこで、ホセアは、もはや奴隷となってしまっているゴメルを銀15シェケル、大麦1ホメル半の犠牲を払って買い戻します。そこで裏切られておきながらホセアはゴメルに言います。「これからは長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう。」
“私を封印のようにあなたの心臓の上に、
封印のようにあなたの腕につけてください。
愛は死のように強く、
ねたみはよみのように激しいからです。
その炎は火の炎、すさまじい炎です。
大水もその愛を消しことがてきません。”〈雅歌8:6.7〉
主は、ホセアのゴメルへの言葉を通して、私たちにもこのように言われているのではないでしょうか?
「もうこれからは私の愛の中にいなさい。私の愛以外のものに目を向けたり頼ったりしてはいけないよ。私は限りない愛をもってあなたを愛しているのだから。」
ホセアのゴメルに対するような一方的な愛と赦しをイエスキリストによって受け、私たちの信仰生活は始まりました。
私たちの罪のために十字架につけられ死んで葬られ三日目に甦られたイエスキリストを信じ、罪赦され義とされたこと、これが私たちの信仰生活と喜びの土台です。
しかし、もし私たちが、イエスキリストの十字架の愛にとどまりきれず、気付かないうちに信仰から外れ律法を守りきれているかどうかで判断してしまうと、救いの喜びは失いがちす。
ですから、パウロは〈黙示録2:4〉でエペソの教会に「あなたがたは初めの愛から離れてしまった」と警告し、〈ガラテヤ3:2〉で「あなたがたが御霊を受けたのは律法を行ったからか、それとも聞いて信じたからか」と警告しています。
私たちは、イエスキリストの十字架の愛に信頼し、主の救いと義認(主によって正しい者とされた事)は、あくまでも信仰によるところに踏みとどまらなければなりません。
“なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。”〈ローマ1:17〉
ホセア書を通して、私たちは神の無条件の愛や一方的な恵みを見ることがてきますが、もう一つの側面、律法を与えられ、それを行うべきとされていたイスラエルの民がどうなっていったがを見ることができます。
律法の本質は、神を愛し人々が互いに愛し合うことでした。しかし、彼らの心は神から遠く離れ、礼拝や祭りも形だけのものとなってしまいました。
Ⅱ列王記に書かれていますが、彼らは、エジプトの奴隷状態から解放され奇跡を体験し、約束の地で繁栄していたにもかかわらず、神を忘れ偶像バアルに仕え息子や娘達を火の中にくぐらせ占いやまじないを行っていたのです。
イスラエルの民は、主の怒りを引き起こしついにはアッシリヤ捕囚となってしまいます。
神の民は、ゴメルのように不信心と快楽、物質中心となってしまったのです。
だからこそ、父なる神は、そのひとり子イエスを私たち人類に(ユダヤ人にも異邦人にも)与えてくださったのです。
イエスキリストは、私たちを愛するがゆえに律法に違反する罪人、私たちの身代わりとなって十字架で刑罰を受けてくださり律法を成就してくださったのです。
私たちには、そのイエスを信じる信仰によってパリサイ人・律法主義者に勝る神の義がすでに与えられているのです。私たちは、その神の恵みを無駄にしてはなりません。
私たちに必要なのは、イエスが十字架で苦しんでまでも与えてくださった神の義を受け取り、もはや律法から解放されて喜んで自由に生きること。イエスキリストの愛を豊に受け取り、夫と妻のように一つとなり親密な愛の関係を築いて行くこと。そうすれば、私たちの心は豊かな実を結ぶようになっていくのです。
弱さに悩めばイエスの十字架にあって、おりにかなった助けを神から受けるために、ありのままの姿で大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
そうすれば、主は来て救いを、愛と恵みの雨を豊かに注いでくださいます。
“正しい者の道は、夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。”〈箴言4:18〉
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