おもしろブログ特集
世界に広がる神の祝福*魔術師のおい*CSルイス6
魔術師のおい
イギリスで名探偵シャーロク・ホームズがまだ生きていた頃、ロンドンの町に住んでいた女の子ポリーと、魔術師のアンドリューを叔父に持つ少年ディゴリーの物語。
ディゴリーのお母さんは病気だった。お母さんが死んでしまうのではと心配するディゴリーとポリーは友達になる。
ある寒い夏、ふたりは、棟づづきの家の屋根を探検することにする。そこで、魔術師アンドリューによって、魔法の指輪による騒動に巻き込まれる。
そして、別世界に連れて行かれたディゴリーとポリーは、ライオンのアスランがナルニアを創造しているところに遭遇する。
アスランの荘厳な声によって、闇の中に星座や惑星がきらめき出し、生まれたばかりの太陽が昇りだす。新しい太陽は、喜びのあまり笑っているように見えたほどに輝いている。
アスランが、再び、新しい歌を歌うと、何もなかった土地に草木が芽生え、木々が成長し、青々とした世界が広がった。そして、アスランがまだ歌っていると、今度は色々な種類の動物たちが現れ出すのである。
魔術師のおいの物語は、聖書の創世記がモチーフとなっている。しかし、CSルイスは、現代に生きる私たちに沿うように、新約聖書の解釈を加えつつ、魔術師のおいの物語をファンタジーとして描いているのだろう。聖書の創世記と異なると思える所にこそ、神学者である著者CSルイスの深い聖書の解釈が施されているように思う。
アスランとディゴリーとの出会い
アスランより、お母さんの病気を治す命の木の実をもらいたいと願うディゴリー。
ナルニアの守る為の木の実であるリンゴを取りに行くように、アスランから命じられる。
涙をこらえつつ、無事リンゴをナルニアに持ちかえったディゴリーに、アスランは喜びをもたらすリンゴを彼に与える。
アスランは、ディゴリーが考えていた以上に大きく、美しく、眩しいほど金色で おまけに恐ろしい感じでした。......
「お願いですーライオンさんーアスラン」とディゴリー。「あのうーお願いしますーおかあさんの病気を直すような 魔法の果物がこの国にあったら、くださいませんか。」......
その時見たものほど生まれてこのかたディゴリーを 驚かせたものはありませんでした。
そして(不思議とも不思議)きらきらひかる 大粒の涙がライオンの二つの目に浮かんでいました。
その涙は、ディゴリー自身の涙に比べて、あまりにも大きく、よく光っていましたので、一瞬、本当はライオンの方が、自分よりずっとお母さんのことで 心を痛めてくれているに違いない と思い込んだくらいでした。
「わが子よ、わが子よ、」とアスランは言いました。「わたしにはわかっている。悲しみというものは偉大なものだ。この国では まだ、それを知る者はあんたとわたししかいない。わたしたちは互いに力になろう。しかしわたしは、これから先何千年にもわたる ナルニアの未来を考えなければならぬ。あんたが この世界に連れて来た魔女は、再びナルニアに 戻ってくるだろう。しかし今すぐというわけではない。わたしの願いは、ナルニアに魔女が近づく事を恐れるある一本の木を植えること。そうすればその木が、これから先長い年月の間 、ナルニアを魔女から守ることになろう。そして この国はいつ雲が太陽 を覆う時がこようとも 、それまでに長い、輝かしいあしたを楽しむことができるだろう。あんたはわたしの為に、その木に生い育つ種をとってきてくれなければならぬ。」
「はい。」とディゴリーは答えました。
ディゴリーには、どうすればできるのか分かりませんでしたが、 今では、きっとできるのだとかたく信じる気持ちになっていました。
ライオンは深く息をして、頭を低くかがめ、ディゴリーに ライオンのキスをしてくれました。するとたちまち、ディゴリーは、体の中に新しい力と勇気が湧き出すのを感じました。…<CS ルイス著*瀬田貞二訳>
ディゴリーは、天馬に乗って、ライオンに言われたとおりに、ある丘の頂きにある果樹園の真ん中にある一本の木からりんご をひとつもぎとって、ライオンのところに持って帰って来ることになりました。
丘の頂きに着くと、東に向いた金の門があった。ディゴリーが、門に近づくと、その金の扉に銀の字で書かれた文字を見ることができた。
黄金の門より入れ、門からでなければ入るべからず。
わたしの木の実は人の為にとるのでなければ、遠慮せよ。
木の実を盗む者と、門の外からこの地に入る者は、
心の欲を満たしても、終わりのない絶望をも見つけ出す。
ディゴリーが門の扉に手をかけると、その扉はすぐに開いた。アスランが命じた者のディゴリー為に門はその扉を開けたのだった。
その果樹園の真ん中には、キラキラと輝いている大きな銀色のリンゴがたくさん実った
木があった。
ディゴリーは、リンゴを一つ取ると、リンゴをしまう前にそのリンゴの香りを嗅いでしまった。そうしたディゴリーは、急に激しく喉のかわきに襲われたので、彼はあわててリンゴをポケットにしまった。
その時、門を乗り越えて入ったに違いないあの魔女が立っていた。
魔女は、自分の欲の為にリンゴを食べたらしく、その顔はごう慢で、まるで死んでいるように恐ろしいほど白かった。
一刻でも早くと、魔女から離れ逃げ出したディゴリーは、門の外に出た。
しかし、追いかけて来た魔女は、ディゴリーをだまして、誘惑しようと嘘をならびたてたのである。
アスランに黙って母親のところにリンゴを勝手に持って帰るように誘惑されたディゴリーは、まるで傷を受けたように苦しんだが、母親がいつもディゴリーに約束を守るように言っていることを思い出し、アスランとの約束を守ることを決心する。
そして、ディゴリーは、無事にアスランのところにリンゴを持って帰ったのだった。
アスランは、ディゴリーがそのリンゴを持ち帰る為に、いかに喉の渇きを我慢し、母親の為に苦しみ泣いたかを、すべて知っていた。
そして、アスランからほめられたディゴリーは、アスランの創造のしたナルニアの地にそのリンゴを植えたのだった。
その後、アスランから、そのリンゴの種から育ったリンゴを、母親の為にもらうことができたディゴリーは、喜びのあまり夢を見ているようだった。
この世界に戻り、ディゴリーは母親にリンゴの皮をむいて食べてもらうと、アスランが言ったとおりに、奇跡がおこり、ディゴリーのお母さんの病気はすっかり良くなったのである。
アスランは、決して、ディゴリーを失望させなかった。いや、むしろ、ディゴリーが心配しているよりも、彼の母親のことを心配していた。
聖書はこう言っています。「イエスキリストを信頼する者は、決して失望に終わることがない。」<ローマ10:10より。>
救い主イエスは、病人を癒され、慰められる方である。また、心の悩み、苦しみも顧みられる。そして、豊かな命を与え、喜びに満たされる方なのである。
"まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの悲しみをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちの背きの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。"<イザヤ53章4.5>
CSルイスは、魔術師のおいの物語の中で、ディゴリーの母親の話を通して、救い主イエスキリストの十字架の死と復活の力を、聖書のこの<イザヤ53:4.5>の御言葉をモチーフとして描いているのである。
救い主イエスキリストは、私たちの罪だけでなく、病をも十字架の上で負われたのである。それは、私たちの心も体も回復させるためだった。
魔術師のおいの物語において、ディゴリーの母親は病によって死にかけていた。
救い主イエスキリストのいやしの力には、復活の命の力が伴っているのである。
CSルイスは、ライオンと魔女の物語の中で、サンタクロースがルーシィに、どんな傷も病も治す薬を贈るという話によって、救い主イエスがどんな病をもいやすことができる方であることを描いている。だが、その薬はナルニアでしか使えない。
しかし、CSルイスは、魔術師のおいの物語の中では、ナルニアではなくディゴリーの元の世界にいる彼の母親にも、アスランの命の力が及ぶように描いている。
それは、サンタクロースによってではなく、私たちが住むこの現実の世界で、罪の問題だけでなく、病や死、悲しみという問題を解決できる救い主と私たちが出会えると、CSルイスが語っているかのようである。
【聖書の創世記の基本的な解釈とナルニア国物語】
[宇宙の起源・球の起源・人の起源]
宇宙の起源、地球の起源、人の起源、すなわち、神が天と地を創造され、最初の人アダムとイブを造られたことは、聖書の創世記1.2章に書かれてある。
ナルニア国物語では、アスランの歌によってナルニア国が誕生したが、聖書には、神のことばによって万物は創造されたと書かれている。
宇宙の星や、太陽も月も、この美しい地球も、神のことばによって誕生したのである。
神が、土地のちりで人をかたち作り、神の息を吹き込むことによって、最初の人アダムが誕生した。だから、私たち人間は、死後、土から取られたので土に帰るのである。
そして、最初の女性であるイブは、神がアダムを深く眠らせ、アダムのあばら骨から取った骨を、ひとりの女に造り上げられたことによって誕生したのである。
アダムの名に意味は、「人」である。そして、イブの名の意味は、「すべてのものの母」である。
アダムとイブが、全ての人類の祖先にあたる。だから、ナルニア国物語では、人間は、アダムの息子、イブの娘と表現されている。
ナルニア国物語の魔術師のおいの話とは違って、実際にはアダムとイブはエデンの園で、蛇であるサタンの嘘や欺きにそそのかされ、命の木の実を食べてしまう。
しかし、ライオンと魔女の物語の中のプリンを食べてしまったエドマンドの話を通して、CSルイスは、この事を表現しているのだろう。
新約聖書には、エデンの園でアダムとイブが誘惑されたように、目の欲、肉の欲、暮らし向きの誇りなどに誘惑されることを避けるようにと書かれている。<第1ヨハネ2:15ー17より>
魔術師のおいの物語の中でディゴリーを通して、CSルイスが描いていることは、この現実の世界の子供たちにとって、実際的に役に立つ学びであり、有意義なものであると言えるのである。
アスランがディゴリーに息を吹きかけると、ディゴリーは勇気と力に満ちた。いのちの木の実を取りに行く使命を果たすことができると信じれたのだった。そして、ディゴリーは、魔女の嘘と欺きによる誘惑に負けなかった。
アスランのいのちの息吹きが、ディゴリーに成功をもたらしたのである。
"私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエスキリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"<ローマ8:38.39>
救い主イエスキリストは、私たちにサタンの力に勝利する力を与えられる方なのである。
いのちの息吹きである聖霊を注がれ、私たち人生に成功を与えられるのである。
[エデンの園の出来事]
エデンの園でイブがサタンである蛇にそそのかされ、...最初の人アダムが罪を犯し、その結果、罪と死と呪いがこの世界に入ってしまった。
そして、この地球から、また、私たち人類から、あまりにも大きなものが失われてしまったのだった。
a)父なる神との平和な関係が失われてしまった。
b)神と人との親しい交わり(コミュニケーション)、真の礼拝が損なわれてしまった。
c)罪と死とがこの世界に入り、永遠の命が失われてしまった。。
d)人類からこの地球を支配する権威(治める権威)が、サタンに騙し盗られてしまった。
e)神は家族である私たち神の子たちを失ってしまった。
f)人と人との平和な関係も損なわれてしまった。
g)人と万物との調和、土地の産物の豊かな収穫、季節にかなった雨などのバランスが損なわれてしまった。
つまり、ナルニア国では、白い魔女のせいで春が来ず、厳しい凍るような雪の世界が続いたり、本当の自由がなく愛も平和も身を潜めてしまうような状況が起こったが、この現実の世界でも、サタンの支配が入り、多かれ少なかれナルニアでのような状況が起こるようになってしまったのである。
また、ディゴリーが魔女に誘惑されたように、金銭欲や物質欲などに誘惑されるということも起こるようになってしまった。
しかし、ナルニアではアスランと共に春が来る。また、ナルニアでは、アダムの息子とイブの娘である子どもたち、すなわち人間はアスランと親しく話をすることができる。
そして、アスランは罪人や病気の人や助けが必要な人を心から気にかけてくれる。
救い主イエスキリストは、アスランのように、いやそれ以上に素晴らしいものをもって、私たちを愛してくださる。
なぜなら、救い主イエスは、エデンの園で起こった出来事を解決し、この世界を回復するために、この世界に来られたからである。
そして、イエスキリストは、十字架の御業によって、神と人、また人と人との平和な関係を取り戻し、愛し合う中での親しいコミュニケーションを回復させてくださったのである。そして、私たちの人生に春をもたらし、弱った時や病気の時には助けてくださる。
また、救い主イエスは、命の木の実も、私たちに与えてくださる方なのである。
ナルニア国物語の中のアスランは、海の彼方の国の皇帝の息子であると描かれている。
救い主イエスキリストは、天におられる神のひとり子である。
神は、私たち人類を救う為に、神のひとり子であるイエスを、この世界に贈ることをエデンの園で最初の人アダムに約束されたと聖書に書かれている。
そして神が約束された通りに、実際に、神のひとり子であるイエスキリストは救い主としてクリスマスにこの世に来られたのである。
魔術師のおいの物語は、ナルニア国物語の年代順としては、第1番目に当たる。その為、アスランによるナルニア創造が描かれている。
この後、ナルニアにアスランが初めに現れるのは、ライオンと魔女の物語においてである。そして、アスランは、エドマンドやナルニアの国を救うために、自ら進んで石舞台の上で魔女によって殺された。
これは、聖書の第1巻の創世記で、神のことばであるイエスがこの世界を創造したと書かれているが、その後、クリスマスに、神であるイエスが王として生まれ、人類の前に姿を現されたのである。
そして、アスランと同じように、救い主イエスは、私たち人類を救う為に、十字架の上で自ら命を捨てられたのでだった。
その時から、新約聖書が始まるのである。(聖書は、旧約聖書と新約聖書の2巻で成り立っている。)
その為、CSルイスは、アスランが再びナルニアを訪れるのと同時に、ナルニアにクリスマスを到来させているのである。
(当ブログ紹介・おもしろブログ特集*最初のアダム.2014.2月4日掲載)
イギリスで名探偵シャーロク・ホームズがまだ生きていた頃、ロンドンの町に住んでいた女の子ポリーと、魔術師のアンドリューを叔父に持つ少年ディゴリーの物語。
ディゴリーのお母さんは病気だった。お母さんが死んでしまうのではと心配するディゴリーとポリーは友達になる。
ある寒い夏、ふたりは、棟づづきの家の屋根を探検することにする。そこで、魔術師アンドリューによって、魔法の指輪による騒動に巻き込まれる。
そして、別世界に連れて行かれたディゴリーとポリーは、ライオンのアスランがナルニアを創造しているところに遭遇する。
アスランの荘厳な声によって、闇の中に星座や惑星がきらめき出し、生まれたばかりの太陽が昇りだす。新しい太陽は、喜びのあまり笑っているように見えたほどに輝いている。
アスランが、再び、新しい歌を歌うと、何もなかった土地に草木が芽生え、木々が成長し、青々とした世界が広がった。そして、アスランがまだ歌っていると、今度は色々な種類の動物たちが現れ出すのである。
魔術師のおいの物語は、聖書の創世記がモチーフとなっている。しかし、CSルイスは、現代に生きる私たちに沿うように、新約聖書の解釈を加えつつ、魔術師のおいの物語をファンタジーとして描いているのだろう。聖書の創世記と異なると思える所にこそ、神学者である著者CSルイスの深い聖書の解釈が施されているように思う。
アスランとディゴリーとの出会い
アスランより、お母さんの病気を治す命の木の実をもらいたいと願うディゴリー。
ナルニアの守る為の木の実であるリンゴを取りに行くように、アスランから命じられる。
涙をこらえつつ、無事リンゴをナルニアに持ちかえったディゴリーに、アスランは喜びをもたらすリンゴを彼に与える。
アスランは、ディゴリーが考えていた以上に大きく、美しく、眩しいほど金色で おまけに恐ろしい感じでした。......
「お願いですーライオンさんーアスラン」とディゴリー。「あのうーお願いしますーおかあさんの病気を直すような 魔法の果物がこの国にあったら、くださいませんか。」......
その時見たものほど生まれてこのかたディゴリーを 驚かせたものはありませんでした。
そして(不思議とも不思議)きらきらひかる 大粒の涙がライオンの二つの目に浮かんでいました。
その涙は、ディゴリー自身の涙に比べて、あまりにも大きく、よく光っていましたので、一瞬、本当はライオンの方が、自分よりずっとお母さんのことで 心を痛めてくれているに違いない と思い込んだくらいでした。
「わが子よ、わが子よ、」とアスランは言いました。「わたしにはわかっている。悲しみというものは偉大なものだ。この国では まだ、それを知る者はあんたとわたししかいない。わたしたちは互いに力になろう。しかしわたしは、これから先何千年にもわたる ナルニアの未来を考えなければならぬ。あんたが この世界に連れて来た魔女は、再びナルニアに 戻ってくるだろう。しかし今すぐというわけではない。わたしの願いは、ナルニアに魔女が近づく事を恐れるある一本の木を植えること。そうすればその木が、これから先長い年月の間 、ナルニアを魔女から守ることになろう。そして この国はいつ雲が太陽 を覆う時がこようとも 、それまでに長い、輝かしいあしたを楽しむことができるだろう。あんたはわたしの為に、その木に生い育つ種をとってきてくれなければならぬ。」
「はい。」とディゴリーは答えました。
ディゴリーには、どうすればできるのか分かりませんでしたが、 今では、きっとできるのだとかたく信じる気持ちになっていました。
ライオンは深く息をして、頭を低くかがめ、ディゴリーに ライオンのキスをしてくれました。するとたちまち、ディゴリーは、体の中に新しい力と勇気が湧き出すのを感じました。…<CS ルイス著*瀬田貞二訳>
ディゴリーは、天馬に乗って、ライオンに言われたとおりに、ある丘の頂きにある果樹園の真ん中にある一本の木からりんご をひとつもぎとって、ライオンのところに持って帰って来ることになりました。
丘の頂きに着くと、東に向いた金の門があった。ディゴリーが、門に近づくと、その金の扉に銀の字で書かれた文字を見ることができた。
黄金の門より入れ、門からでなければ入るべからず。
わたしの木の実は人の為にとるのでなければ、遠慮せよ。
木の実を盗む者と、門の外からこの地に入る者は、
心の欲を満たしても、終わりのない絶望をも見つけ出す。
ディゴリーが門の扉に手をかけると、その扉はすぐに開いた。アスランが命じた者のディゴリー為に門はその扉を開けたのだった。
その果樹園の真ん中には、キラキラと輝いている大きな銀色のリンゴがたくさん実った
木があった。
ディゴリーは、リンゴを一つ取ると、リンゴをしまう前にそのリンゴの香りを嗅いでしまった。そうしたディゴリーは、急に激しく喉のかわきに襲われたので、彼はあわててリンゴをポケットにしまった。
その時、門を乗り越えて入ったに違いないあの魔女が立っていた。
魔女は、自分の欲の為にリンゴを食べたらしく、その顔はごう慢で、まるで死んでいるように恐ろしいほど白かった。
一刻でも早くと、魔女から離れ逃げ出したディゴリーは、門の外に出た。
しかし、追いかけて来た魔女は、ディゴリーをだまして、誘惑しようと嘘をならびたてたのである。
アスランに黙って母親のところにリンゴを勝手に持って帰るように誘惑されたディゴリーは、まるで傷を受けたように苦しんだが、母親がいつもディゴリーに約束を守るように言っていることを思い出し、アスランとの約束を守ることを決心する。
そして、ディゴリーは、無事にアスランのところにリンゴを持って帰ったのだった。
アスランは、ディゴリーがそのリンゴを持ち帰る為に、いかに喉の渇きを我慢し、母親の為に苦しみ泣いたかを、すべて知っていた。
そして、アスランからほめられたディゴリーは、アスランの創造のしたナルニアの地にそのリンゴを植えたのだった。
その後、アスランから、そのリンゴの種から育ったリンゴを、母親の為にもらうことができたディゴリーは、喜びのあまり夢を見ているようだった。
この世界に戻り、ディゴリーは母親にリンゴの皮をむいて食べてもらうと、アスランが言ったとおりに、奇跡がおこり、ディゴリーのお母さんの病気はすっかり良くなったのである。
アスランは、決して、ディゴリーを失望させなかった。いや、むしろ、ディゴリーが心配しているよりも、彼の母親のことを心配していた。
聖書はこう言っています。「イエスキリストを信頼する者は、決して失望に終わることがない。」<ローマ10:10より。>
救い主イエスは、病人を癒され、慰められる方である。また、心の悩み、苦しみも顧みられる。そして、豊かな命を与え、喜びに満たされる方なのである。
"まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの悲しみをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちの背きの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。"<イザヤ53章4.5>
CSルイスは、魔術師のおいの物語の中で、ディゴリーの母親の話を通して、救い主イエスキリストの十字架の死と復活の力を、聖書のこの<イザヤ53:4.5>の御言葉をモチーフとして描いているのである。
救い主イエスキリストは、私たちの罪だけでなく、病をも十字架の上で負われたのである。それは、私たちの心も体も回復させるためだった。
魔術師のおいの物語において、ディゴリーの母親は病によって死にかけていた。
救い主イエスキリストのいやしの力には、復活の命の力が伴っているのである。
CSルイスは、ライオンと魔女の物語の中で、サンタクロースがルーシィに、どんな傷も病も治す薬を贈るという話によって、救い主イエスがどんな病をもいやすことができる方であることを描いている。だが、その薬はナルニアでしか使えない。
しかし、CSルイスは、魔術師のおいの物語の中では、ナルニアではなくディゴリーの元の世界にいる彼の母親にも、アスランの命の力が及ぶように描いている。
それは、サンタクロースによってではなく、私たちが住むこの現実の世界で、罪の問題だけでなく、病や死、悲しみという問題を解決できる救い主と私たちが出会えると、CSルイスが語っているかのようである。
【聖書の創世記の基本的な解釈とナルニア国物語】
[宇宙の起源・球の起源・人の起源]
宇宙の起源、地球の起源、人の起源、すなわち、神が天と地を創造され、最初の人アダムとイブを造られたことは、聖書の創世記1.2章に書かれてある。
ナルニア国物語では、アスランの歌によってナルニア国が誕生したが、聖書には、神のことばによって万物は創造されたと書かれている。
宇宙の星や、太陽も月も、この美しい地球も、神のことばによって誕生したのである。
神が、土地のちりで人をかたち作り、神の息を吹き込むことによって、最初の人アダムが誕生した。だから、私たち人間は、死後、土から取られたので土に帰るのである。
そして、最初の女性であるイブは、神がアダムを深く眠らせ、アダムのあばら骨から取った骨を、ひとりの女に造り上げられたことによって誕生したのである。
アダムの名に意味は、「人」である。そして、イブの名の意味は、「すべてのものの母」である。
アダムとイブが、全ての人類の祖先にあたる。だから、ナルニア国物語では、人間は、アダムの息子、イブの娘と表現されている。
ナルニア国物語の魔術師のおいの話とは違って、実際にはアダムとイブはエデンの園で、蛇であるサタンの嘘や欺きにそそのかされ、命の木の実を食べてしまう。
しかし、ライオンと魔女の物語の中のプリンを食べてしまったエドマンドの話を通して、CSルイスは、この事を表現しているのだろう。
新約聖書には、エデンの園でアダムとイブが誘惑されたように、目の欲、肉の欲、暮らし向きの誇りなどに誘惑されることを避けるようにと書かれている。<第1ヨハネ2:15ー17より>
魔術師のおいの物語の中でディゴリーを通して、CSルイスが描いていることは、この現実の世界の子供たちにとって、実際的に役に立つ学びであり、有意義なものであると言えるのである。
アスランがディゴリーに息を吹きかけると、ディゴリーは勇気と力に満ちた。いのちの木の実を取りに行く使命を果たすことができると信じれたのだった。そして、ディゴリーは、魔女の嘘と欺きによる誘惑に負けなかった。
アスランのいのちの息吹きが、ディゴリーに成功をもたらしたのである。
"私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエスキリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"<ローマ8:38.39>
救い主イエスキリストは、私たちにサタンの力に勝利する力を与えられる方なのである。
いのちの息吹きである聖霊を注がれ、私たち人生に成功を与えられるのである。
[エデンの園の出来事]
エデンの園でイブがサタンである蛇にそそのかされ、...最初の人アダムが罪を犯し、その結果、罪と死と呪いがこの世界に入ってしまった。
そして、この地球から、また、私たち人類から、あまりにも大きなものが失われてしまったのだった。
a)父なる神との平和な関係が失われてしまった。
b)神と人との親しい交わり(コミュニケーション)、真の礼拝が損なわれてしまった。
c)罪と死とがこの世界に入り、永遠の命が失われてしまった。。
d)人類からこの地球を支配する権威(治める権威)が、サタンに騙し盗られてしまった。
e)神は家族である私たち神の子たちを失ってしまった。
f)人と人との平和な関係も損なわれてしまった。
g)人と万物との調和、土地の産物の豊かな収穫、季節にかなった雨などのバランスが損なわれてしまった。
つまり、ナルニア国では、白い魔女のせいで春が来ず、厳しい凍るような雪の世界が続いたり、本当の自由がなく愛も平和も身を潜めてしまうような状況が起こったが、この現実の世界でも、サタンの支配が入り、多かれ少なかれナルニアでのような状況が起こるようになってしまったのである。
また、ディゴリーが魔女に誘惑されたように、金銭欲や物質欲などに誘惑されるということも起こるようになってしまった。
しかし、ナルニアではアスランと共に春が来る。また、ナルニアでは、アダムの息子とイブの娘である子どもたち、すなわち人間はアスランと親しく話をすることができる。
そして、アスランは罪人や病気の人や助けが必要な人を心から気にかけてくれる。
救い主イエスキリストは、アスランのように、いやそれ以上に素晴らしいものをもって、私たちを愛してくださる。
なぜなら、救い主イエスは、エデンの園で起こった出来事を解決し、この世界を回復するために、この世界に来られたからである。
そして、イエスキリストは、十字架の御業によって、神と人、また人と人との平和な関係を取り戻し、愛し合う中での親しいコミュニケーションを回復させてくださったのである。そして、私たちの人生に春をもたらし、弱った時や病気の時には助けてくださる。
また、救い主イエスは、命の木の実も、私たちに与えてくださる方なのである。
ナルニア国物語の中のアスランは、海の彼方の国の皇帝の息子であると描かれている。
救い主イエスキリストは、天におられる神のひとり子である。
神は、私たち人類を救う為に、神のひとり子であるイエスを、この世界に贈ることをエデンの園で最初の人アダムに約束されたと聖書に書かれている。
そして神が約束された通りに、実際に、神のひとり子であるイエスキリストは救い主としてクリスマスにこの世に来られたのである。
魔術師のおいの物語は、ナルニア国物語の年代順としては、第1番目に当たる。その為、アスランによるナルニア創造が描かれている。
この後、ナルニアにアスランが初めに現れるのは、ライオンと魔女の物語においてである。そして、アスランは、エドマンドやナルニアの国を救うために、自ら進んで石舞台の上で魔女によって殺された。
これは、聖書の第1巻の創世記で、神のことばであるイエスがこの世界を創造したと書かれているが、その後、クリスマスに、神であるイエスが王として生まれ、人類の前に姿を現されたのである。
そして、アスランと同じように、救い主イエスは、私たち人類を救う為に、十字架の上で自ら命を捨てられたのでだった。
その時から、新約聖書が始まるのである。(聖書は、旧約聖書と新約聖書の2巻で成り立っている。)
その為、CSルイスは、アスランが再びナルニアを訪れるのと同時に、ナルニアにクリスマスを到来させているのである。
(当ブログ紹介・おもしろブログ特集*最初のアダム.2014.2月4日掲載)
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