2014年3月12日水曜日

世界に広がる神の祝福*ナルニア国物語*CSルイス7

おもしろブログ特集
世界に広がる神の祝福*最後の戦い*CSルイス7



最後の戦いのモチーフは、聖書の黙示録である。そして、そのテーマは永遠である。

最後の戦いは、よこしまな猿と自信のないロバのトマドイが、ライオンの毛皮を拾ったことから物語は始まる。
猿のヨコシマは、ロバのトマドイにライオンの毛皮を着せ、アスランの真似をさせて、ナルニアを欲によって思うように支配しようとする。

ナルニア最後の王チリアンは、一番の親友である一角獣のたから石とアスランの話をしていた。ナルニアにアスランがきていると言うのである。
チリアン王の望みも、一角獣の望みも、アスランに会うことだった。

しかしそこへ、金髪で金色のひげを生やしたセントールのひとりが、額には人間の汗を、栗毛の腹には馬の汗をかきながら、王の前に駆けつけた。
長年に渡り星々の不思議なしるしを観察してきたセントールは、星々はアスラン到来の知らせも、平和の良き訪れも告げ知らせていないと言う。
もし、アスランがナルニアに来るならば、星々はこぞってアスランの名誉をたたえるはず。したがって、アスラン到来の噂は嘘偽りだと、セントールは王に忠告する。
そして、これほど星々が不吉なことを告げ知らせていることは類をみないと言う。

アスランの偽物が現れたことにより、ナルニアの国は、非常な災難に遭遇する。

チリアン王とたから石はナルニアを進むうちに、恐ろしい様子を耳にしていくことになるのである。

アスランが、もの言う聖なる木々を切り倒し材木にして、カロールメンの所に売りに出すように命じたと、川ネズミがその材木を運ぶ為にいかだにして川を下って行く。
チリアン王とたから石が怒りにかられて進んで行くと、木々を切り倒す音が聞こえてきた。そこで目にしたものは、ナルニアのものを言う馬たちが、カロールメン人に奴隷のように働かされている姿だった。
その事実を知ったとたん、あまりにも激しく憤った為に、チリアン王は剣でカロールメン人の首を切り落とし、たから石は角で相手の胸をつらぬいて殺してしまっていた。
人を殺してしまったことを悩んだふたりは、アスランのさばきに自らを委ねようと、カロールメン人たちにすすんで捕まえられることなってしまう。

カロールメン人たちに連れて行かれた所に、アスランの姿はなく、真っ赤なジャケットを着て宝石で飾ったつっかけ靴を履いた趣味の悪いことこの上ない、醜い毛ざるが座っていた。
毛ざるは、座っている側にクルミを山と積み、しょっちゅう殻を歯で割っては、ペッ、ペッと吐き出しながら食べていた。
そのクルミは、ヨコシマな毛ざるがアスランの名を使い、リスたちに貢ぎものとして税を課し、取り立てているものだった。かわいそうなリスたちが冬に食べるクルミは、もうほとんど残ってはいなかった。
アスランの名を使い、嘘偽りを信じさせ、私利私欲によってやりたい放題をする毛ざる。

やがて、ヨコシマな毛猿や悪を企むカロールメンの人間は、自分たちが思いもしない、悪魔に支配されているような偽物の神タシランを呼び寄せてしまう。
しかし、アスランの名にかけて命じられた言葉によって、偽物の神である破壊者タシランは消え失せた。アスランの名にかけて言う言葉には、力があったのだ。

イエスの名前には力がある。彼の名によって悪霊の支配や束縛から、人々は解放されるのである。イエスの御名には、最高の王としての力があり、権威があるのである。

アスランと二度と離れない永遠の出会い
アスランの、「時が来た。」と叫ぶ、空の星を震わすほどの大声に応じて、ナルニアの国は終わり、新しい世界の扉が開かれた。
最後の戦いには、アスランと人々との二度と離れない永遠の出会いが描かれている。
この物語は、聖書の黙示録がモチーフとなっている。

イエスキリストとの二度と離れない永遠の出会い
時が来ると、世の終わりのラッパが響き渡り、イエスキリストを信じる者たちも、新しい天と地、すなわち天国に住むことになるのである。
そして、そこには、もはや死もなく、悲しみもなく、苦しみもない。
また、その中央には、水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなっている。

最後に。
ナルニア国物語に、アスランと人との色々な出会い方があったように、現実のこの世界のライオン、すなわちイエスキリストとも、色々な出会い方がある。
しかし、世の終わりの日には、新しい天と地とが開かれ、イエスキリストとも、離ればなれになっていた人々とも、二度と離れない永遠の神の家族としての出会いとなるのである。

【黙示録の預言の言葉】
黙示録では、イエスキリストは「王の王、主の主」として登場する。
白馬に乗った王子様。ほとんどの女の子が憧れるのが白馬に乗った王子様で、いつか自分を迎えに来てくれるのをなぜだか待っている。
その姿さながらと言うのではないが、イエスキリストも白馬に乗って現れるのである。

"また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない 名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて 、その名は「神のことば」と呼ばれた。
天にある軍勢は真っ白い、きよい麻布の衣を着て 、白い馬に乗って彼につき従がった。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい酒ぶねを踏まれる。
その着物にも、ももにも「王の王、主の主」という名が書かれていた。"<黙示録19:11ー16>

この黙示録のイエスキリストの姿は、百獣の王ライオン、すなわちユダの獅子であるイエスが「王の王、主の主」としてな決定的な勝利を取られることを現している。
そして、それと共にイエスキリストの再臨の姿を現している。
イエスキリストが再び来られる時は、万軍の主の王であるメシアイエスによる、永遠の神の国を実現されるのである。それは、世界の回復の時であり、万物が改まる時となる。

【ユダの獅子(ライオン)の完全な勝利】
黙示録19:15にある万物の支配者である神の激しい酒ぶねを踏まれる。とは、万軍の主の王としてイエスキリストが決定的に勝利されるイメージが描かれている。と思うと理解しやすい。
黙示録は、ユダの獅子イエスキリストがこの世界において、完全に勝利されて行く事が書かれている書簡だと言えるのである。

【神のひとり子イエス】
神は、この世界をアダム(人)に任された。神は真実であるがゆえに一度約束したことは変えられない。
それゆえ、神は、そのひとり子イエスをユダの獅子である世界の王(この世においても来るべき新しい世界においても)として立てられる為に、ダビデ契約やアブラハム契約を用いられた。

"見なさい。ユダ族から出た獅子(ライオン)ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。"<黙示録5:5>
"わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。"<黙示録22:16>

神は、まず、アブラハムに大いなる祝福を与えられ、アブラハムとその子孫であるイエスキリストに相続させることを約束された。
そしてまた、神は、ダビデとも約束され、ダビデの王が神から与えられた大いなる祝福も、ダビデとその子孫であるイエスキリストに相続させることを約束されたのである。
また、その基盤となっているのは、聖書の創世記で、神がアダムに約束された神の永遠の救いのご計画である。
それが、勝利されたユダ族から出た獅子イエスが、ダビデの根であり、また子孫であるということの意味である。
したがって、神の子であるイエスは、アブラハム契約、ダビデ契約を通して、聖霊によって受胎した乙女マリヤより、アブラハムの子孫、ダビデの子孫であるイエスはユダヤ人の王として誕生された。

そして、ユダ族から出た獅子イエスキリストは、ユダヤ人の王として十字架にかかられ、復活することによって死と悪魔の力に勝利されたのである。
今度、再び来られる時には、万軍の王としての権威を帯び、本来の神としての姿でこの世界に来られるのである。

黙示録はこれからの将来、この世界がどうなって行くのかが書かれている。すなわち、終わりの時代において、最後の戦いでアスランと共にいる者たちが勝利をしたように、ほふられた小羊である王イエスキリストと共にいる者も全員勝利して行くのである。<黙示録3:12.15:2.17:14.19:11ー16参照>
"この者どもは子羊と戦いますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、子羊は主の主、王の王だからです。また彼らと共にいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。"<黙示録17:14>

世の終わりの日、救い主イエスキリストが再び、王としての権威を帯びこの世に来られ、完全に勝利を取られる時、万物が改まる時を迎える。
そして新しい扉が開かれ、新天新地という世界が始まるのである。

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