2013年8月11日日曜日

ダニエル






 
 ダニエル

ダニエルは、獅子のように勇ましい人物だった。

“悪しき者は追う者もないに逃げる。しかし、正しい人は獅子のように勇ましい。”〈箴言28:1

 ダニエルは、獅子の穴に投げ込まれた時も、火の燃える炉の中にあっても、主を絶えず礼拝し、主に信頼してたがゆえに、百獣の王・ユダの獅子イエスキリストのように勇ましい人物だったのである。

 ダニエルが、預言者エレミヤの主からの預言の言葉によってエルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを悟った時、ダニエルは、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着て灰をかぶってり主に自らの罪と民の罪を悔い改め祈ったのだった。これは、神である主への最もへりくだった姿を表している。〈ダニエル9:3

 そして、〈ダニエル10:3〉では、ダニエルに一つのことばが啓示された。それは、終わりの時に起こる大きな戦のことだった。

 ダニエルが、その神の真実な言葉を理解し幻を悟っていた頃、ダニエルは喪に服し、肉もぶどう酒も口にせず身に油も塗らなかった。そして、ダニエルは終わりの日にユダヤ人イスラエルの民に起こること悟ったのだった。

〈ダニエル12:1-4〉は、いのち書に記されているものは、みな救われると預言する。

 世界中のイエスを信じる異邦人の完成の後、ユダヤ人イスラエルの民が復活し、みな救われると聖書は預言する。

 ダニエルは、王の権威を持つユダ族として生まれた。そんな彼は、信仰によって獅子の口さえ防いだ。獅子よりも勇ましかったのだ。そして、聖書は語るのである。彼ダニエルが信じた神、すなわち主は、全ての獅子を制する百獣の王の中の王、ユダの獅子として語られ、全地の王として再び来られることを預言しているのである。

【黙示録の学びとダニエル書】

 

 ダニエル書9章24-27

 この預言は、エレミヤに告げられた主のことばを実現するために、イザヤ書にも登場するクロス王にエルサレムを再建せよと、主がクロス王の霊を奮い立たせた年に始まる。時は、約BC448年である。エズラ記いっしょうから

クロス王に命令、すなわちエレミヤのバビロン捕囚からの解放七十年の預言の実現、エルサレムの再建命令から城壁、門、神殿再建が7週。これらは、ネヘミヤ記、エズラ記、ハガイ書に書かれている。

 ネヘミヤはまず、門を調べた。ネヘミヤと民により、城壁は再建されたが、神殿再建は敵の妨害が強く途中で止まった。

 しかし、主は、総督ゼルバベル、律法学者エズラ、ハガイにより再び、イスラエルの民をの霊を奮い立たせた。主は共におられると励まされたのである。そして、9月24日に、

 第69周目にイエスキリストは十字架にかかられた。神殿再建からイエスキリストが十字架にかかるまでが62週

 

 ヘブル歴では、一週を七年と換算する。つまり、この命令が出たBC445年からイエスキリストの十字架AD32年までが483年間である。

 70周は490年、最後の7年は、大患難時代から始まるから、490年から7年を引くと483年となる。 これは、命令が出た時からキリストの十字架までが483年とぴったり一致する。

 

 第70周目は、黙示録の大患難時代に始まる。この預言は、イスラエルとエルサレム神殿に関わる預言であるから、教会の時代すなわち異邦人の恵みの時代には、時計はストップしている。

 黙示録で、ユダヤ人イスラエルの民十四万四千人が救われ、至聖所に荒らす憎むべき者が立った時から、第70周目が始まるわけである。

 

 イエスは、世の終わりの事をこのように言われた。

 終わりには、反キリストが現れる。イスラエルの周辺で戦争が起こり民は民に敵対し、方々、世界各地でききんと地震が起こる。

キリスト者は迫害される。しかし、御国の福音は全世界に宣べ伝えられる。

“それゆえ、預言者ダニエルによって語られた荒らすべき憎むべき者が聖なる所に立つのを見たならば…”〈マタイ24章〉

 苦難が、すなわち患難時代に続いて、天の万象が揺り動かされる。太陽は暗くなり月は光を放たず、星は天から落ちる。その時、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて再び雲に乗って来るのを見るのです。

 




 

 

2013年8月8日木曜日

モーセ




  モーセ 

 
 ヨセフの時代のエジプト王が死んだ後、イスラエルの民はエジプトで、奴隷という重労働の中で非常な苦しみを受けるようになった。

 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

 そこで、主は、モーセにミデヤンの柴の中の火の炎の中で現れた。

 神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、これが永遠にわたしの名、呼び名であると仰せられた。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの悩みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、乳と蜜の流れる地に彼らを上らせるためだ。

 エジプトの王女の息子としての育てられたモーセは、当時の文化の中で最高の教育を受けることが出来たのだった。彼の将来は、エジプトの富と権力が約束されていた。

 しかし、モーセは成人したとき、イスラエルの神への信仰によって、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、むしろ神の民であるイスラエル人と共に苦しむことを選び取ったのである。

 モーセは、エジプト王パロの怒りを恐れないで、イスラエルの民を率いてエジプトを立ち去った。キリストという目にみえない神を見るように忍び通したのだ。

 モーセが率いたイスラエルの民は、かわいた地を渡るように紅海を渡った。しかし、同じように渡ろうとしたエジプト人達は、海に飲み込まれてしまった。

 
 モーセは、ヒソプで、子羊の血を門とカモイに塗り、エジプトの奴隷状態から出て行った。

 ヒソプは、ダビデも「ヒソプをもって私をきよめてください。そうすれば、雪のように白くなりましょう。」と言っている。

 
 また、モーセが民と契約書に子羊の血を注ぎ、「これはあなたがたに対して立てられた契約の血である」と言ってきよめに使ったのもヒソプである。

 その時、モーセは祭壇を築き、イスラエル十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。彼らは全焼のいけにえをささげ、また和解のいけにえとして雄牛を主にささげたのである。

そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイアを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。〈出エジプト記24:10

 
契約の民イスラエル

 主がイスラエルを、鷲の翼に載せ、エジプトの奴隷状態から救い出された時、主は彼らを宝の民、祭司の王国・聖なる国民と言われた。

主の割り当て地はご自分の民であるから、ヤコブ(イスラエル)である。

主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の民はいなかった。〈申命記32:9-12

 

 終わりの日、主は再びイスラエルの民を、死の恐怖という奴隷状態から、悪魔の力から、完全に解放される。万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。〈イザヤ31:5

 

 主イエスが再臨される時、、神殿から去った主の栄光も再び主の神殿に戻って来るのである。〈エゼキエル〉


 
【黙示録】
 
 神のしもべモーセの歌と子羊の歌〈黙示録15章〉
 黙示録にははっきりと、イスラエルの民が、モーセの歌とほふられた子羊主イエスの歌を歌うと書かれている。
 神はイスラエルの民と、ほふられた子羊イエスの血によって新しい契約を結ばれ、イスラエルの国も、民も、完全に復活するのである。
 
 モーセの生涯は、指導者、預言者、律法授与者に分けられる。
 
 イエスキリストは、王、すなわち頂点のリーダーであり、神のことばそのものであり、律法からの解放者である。
 ほふられた子羊・王であるイエスは、ご自身の血によって死の力を持つ悪魔の力という奴隷状態から完全にイスラエルの民を脱出させ、罪の呪いに変えて罪に赦しを与え、律法からも解放されるのである。
 
 黙示録では、主イエスキリストによって勝利した彼らが、神の竪琴を手にして、火の混じったガラスの海のほとりに立っている。
 
聖霊の火 …〈ダニエル書7章〉で、ダニエルが見ていると、火の川の流れが、父なるの御座から流れ出ていた。
 また、ダニエルが夜の幻を見ていると、
人の子のような方が天の雲に乗って父なる神のもとに来られ、この方に、主権と光栄と国が与えられた。
 人の子は、ヘブル語「バルナシュ」で、メサイヤ・救い主としての称号を表している。
 ペンテコステの日には、炎のような分かれた舌が現れてひとりひとりの上にとどまった。
【火】は、また主の栄光を現す。
 シナイ山でモーセに主が臨まれた時、全山が煙っていた。牡羊の角笛が鳴り響き、主が火の中にあって、山の中に降りて来られた。煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。その時、イスラエル人には、主の栄光は山の頂きで燃え上がる炎のように見えたと書かれている。〈出エジプト記19章〉
 
 主がモーセを召された時、すなわち、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、これがわたしの永遠の名、代々に渡るわたしの呼び名である』と言われた時も、主は炎の中から語られた。
 黙示録19章に書かれている『神のことば』である王イエスキリストも燃える炎の目をしている。
 
【海】海が水で満ちているように、主の栄光は地に満ちている。
 エリシャの時代、みつぎ物を納めていたモアブの国が、イスラエルに背いた時のことである。
 エリシャは、ユダの王ヨシャバテのために預言したのだった。エリシャは、立琴をひく者を連れて来させ、立琴をひき慣らさせた。すると、主の手がエリシャに下り、彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』」
 翌朝になると、太陽が水の面を照らしていた。
 モアブのは、水が血のように赤いのを見て、王たち(ユダ・イスラエル・エドム)が同士討ちしたのだと思い攻めに入ったところ、イスラエルに返り討ちにあってた。
 そして、主は、モアブをイスラエルの手に渡されたのである。〈列王記3章〉
 
 ガリラヤ湖は、立琴の海とも言われる。主イエスの光が暗闇に上ったところでもある。 人間をとる漁師ペテロ達も思い浮かぶ。
 また立琴は、主に対する賛美を表す。ダビデ、ソロモンの時代は、立琴によって主への賛美がささげられた。
 立琴は、万軍の主の勝利の御手による、神の栄光と大能とを現していると思われる。〈黙示録15:8参照〉
 
 
 
 
 
 


 

 

 

2013年8月7日水曜日

終末における神の御心


 

  ダビデ

 

 少年時代のダビデは、イスラエルの神・万軍の主の御名によって巨人ゴリアテと戦い、イスラエルに大勝利をもたらした。その時のダビデの戦い方は一風変わっていた。袋の中から一つの石を取り出し、石投げでそれを放ち巨人ゴリアテの額に打ち込んだ。そして、石が巨人ゴリアテの額に食い込み、うつぶせに倒れたのだった。

 ダビデは、一振りの剣も使わずに、石投げと一つの石でイスラエルに勝利をもたらしのだ。なぜなら、この戦いは主の戦いだったからである。

 

 イスラエルの王となってからも、絶えず先頭に立って戦いに挑んだのがダビデである。 ダビデは、イスラエルの神・万軍の主と共に、絶えず勝利者として人生を歩んだ。

 そんなダビデが、必ずやっていた事がある。ダビデは戦いに行くときには、戦いに行くのが主の御心か?また戦う方法は何か?必ず主に伺ったのである。 ダビデは、いつも主の御声を聞き、主の御言葉に従って生きたのである。

 

 ダビデという人物を通して、主がいつも私達と共におられ、万軍の主と共に勝利者となれることを知るのである。

 

 ゴリアテとの戦いに大勝利を収めた少年ダビデ、しかし主はその後ダビデを、主の御心を遂行する器として訓練する為に、荒野や周囲の敵との戦いという試練の中を歩ませられた。

 その中でダビデは、罪人であることを悟り、どんな時でも自分自身を愛し共にいてくださる主ご自身を求めたのである。

 そして、ダビデは生きているその時代においての神の御心に仕え、彼の召しを全うして人生を終えたのだった。

 

 1967年中東戦争(6日戦争)で、イスラエルは大勝利を収め、イスラエルは国家として承認される結果を生んだ。しかし、アラブ人諸国からのイスラエルへの敵意という問題はなかなか解決しない。今、パレスチナ問題によって、イスラエルを取り巻く状況は大きく変わろうとしているようにも思える。

 このようなイスラエルにとって困難な状況の中、ダビデがその時代の神の御心を実行する器となる為に試練の中を歩まされたように、主は今、イスラエルの民をリバイバル、また、主の再臨という終末の時代の神の御心に備えて整えようとされているのだろうか?。その後、イスラエル人が帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデをダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主とその恵みに来よう。〈ホセア3:5

 神は終末の時、ユダヤ人イスラエルの民を復活させると、聖書の御言葉によって約束されている。他・参照〈ローマ11:15〉〈黙示録7:4-8

 

恵みによる永遠のいのち

 イエスキリストが甦られた時、恵みよる復活の命が世界中の多くの人々に満ち溢れた。

 父祖たちアブラハム・イサク・ヤコブ、ダビデが待ち望んだ神の最高の祝福!イエスキリストの十字架の死と復活による永遠のいのち、罪の赦し、Kingdomが到来し、私たち異邦人にも及んだのだ。 しかしまだ、何千年も神の祝福を待ち望んでいる多くのユダヤ人が、未だにこの最高の神の祝福を受け取れていない。

 私達は、ユダヤ人イスラエルの民が、神が父祖たちへ約束された最高の祝福を、もう受け取っていく事ができるように、今、主に祈って行くべきではないだろうか?。

 

私たちは、神が父祖達に対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。〈使徒13:3234

 

 元々、救い主イエスの恵みによる全ての霊的祝福は、ユダヤ人イスラエルの民を通して私たち異邦人に与えられたものである。

 だから、ダビデの星を国旗とするユダヤ人イスラエルの民が、ダビデのように主を求める事が、救いの道を成就して下さったイエス様を知ることにつながるよう祈ろう!。

主は、王に勢いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。〈詩篇18:50