モーセ
ヨセフの時代のエジプト王が死んだ後、イスラエルの民はエジプトで、奴隷という重労働の中で非常な苦しみを受けるようになった。
神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
そこで、主は、モーセにミデヤンの柴の中の火の炎の中で現れた。
神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、これが永遠にわたしの名、呼び名であると仰せられた。
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの悩みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、乳と蜜の流れる地に彼らを上らせるためだ。」
エジプトの王女の息子としての育てられたモーセは、当時の文化の中で最高の教育を受けることが出来たのだった。彼の将来は、エジプトの富と権力が約束されていた。
しかし、モーセは成人したとき、イスラエルの神への信仰によって、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりは、むしろ神の民であるイスラエル人と共に苦しむことを選び取ったのである。
モーセは、エジプト王パロの怒りを恐れないで、イスラエルの民を率いてエジプトを立ち去った。キリストという目にみえない神を見るように忍び通したのだ。
モーセが率いたイスラエルの民は、かわいた地を渡るように紅海を渡った。しかし、同じように渡ろうとしたエジプト人達は、海に飲み込まれてしまった。
モーセは、ヒソプで、子羊の血を門とカモイに塗り、エジプトの奴隷状態から出て行った。
ヒソプは、ダビデも「ヒソプをもって私をきよめてください。そうすれば、雪のように白くなりましょう。」と言っている。
また、モーセが民と契約書に子羊の血を注ぎ、「これはあなたがたに対して立てられた契約の血である」と言ってきよめに使ったのもヒソプである。
その時、モーセは祭壇を築き、イスラエル十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。彼らは全焼のいけにえをささげ、また和解のいけにえとして雄牛を主にささげたのである。
“そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイアを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。”〈出エジプト記24:10〉
契約の民イスラエル
主がイスラエルを、鷲の翼に載せ、エジプトの奴隷状態から救い出された時、主は彼らを宝の民、祭司の王国・聖なる国民と言われた。
“主の割り当て地はご自分の民であるから、ヤコブ(イスラエル)である。
主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。
ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の民はいなかった。”〈申命記32:9-12〉
終わりの日、主は再びイスラエルの民を、死の恐怖という奴隷状態から、悪魔の力から、完全に解放される。“万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。”〈イザヤ31:5〉
主イエスが再臨される時、、神殿から去った主の栄光も再び主の神殿に戻って来るのである。〈エゼキエル〉
【黙示録】
神のしもべモーセの歌と子羊の歌〈黙示録15章〉
黙示録にははっきりと、イスラエルの民が、モーセの歌とほふられた子羊主イエスの歌を歌うと書かれている。
神はイスラエルの民と、ほふられた子羊イエスの血によって新しい契約を結ばれ、イスラエルの国も、民も、完全に復活するのである。
モーセの生涯は、指導者、預言者、律法授与者に分けられる。
イエスキリストは、王、すなわち頂点のリーダーであり、神のことばそのものであり、律法からの解放者である。
ほふられた子羊・王であるイエスは、ご自身の血によって死の力を持つ悪魔の力という奴隷状態から完全にイスラエルの民を脱出させ、罪の呪いに変えて罪に赦しを与え、律法からも解放されるのである。
黙示録では、主イエスキリストによって勝利した彼らが、神の竪琴を手にして、火の混じったガラスの海のほとりに立っている。
聖霊の火 …〈ダニエル書7章〉で、ダニエルが見ていると、火の川の流れが、父なるの御座から流れ出ていた。
また、ダニエルが夜の幻を見ていると、
“人の子のような方が天の雲に乗って父なる神のもとに来られ、この方に、主権と光栄と国が与えられた。”
人の子は、ヘブル語「バルナシュ」で、メサイヤ・救い主としての称号を表している。
ペンテコステの日には、炎のような分かれた舌が現れてひとりひとりの上にとどまった。
【火】は、また主の栄光を現す。
シナイ山でモーセに主が臨まれた時、全山が煙っていた。牡羊の角笛が鳴り響き、主が火の中にあって、山の中に降りて来られた。煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。その時、イスラエル人には、主の栄光は山の頂きで燃え上がる炎のように見えたと書かれている。〈出エジプト記19章〉
主がモーセを召された時、すなわち、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、これがわたしの永遠の名、代々に渡るわたしの呼び名である』と言われた時も、主は炎の中から語られた。
黙示録19章に書かれている『神のことば』である王イエスキリストも燃える炎の目をしている。
【海】…海が水で満ちているように、主の栄光は地に満ちている。
エリシャの時代、みつぎ物を納めていたモアブの国が、イスラエルに背いた時のことである。
エリシャは、ユダの王ヨシャバテのために預言したのだった。エリシャは、立琴をひく者を連れて来させ、立琴をひき慣らさせた。すると、主の手がエリシャに下り、彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ…風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』」
翌朝になると、太陽が水の面を照らしていた。
モアブのは、水が血のように赤いのを見て、王たち(ユダ・イスラエル・エドム)が同士討ちしたのだと思い攻めに入ったところ、イスラエルに返り討ちにあってた。
そして、主は、モアブをイスラエルの手に渡されたのである。〈Ⅱ列王記3章〉
ガリラヤ湖は、立琴の海とも言われる。主イエスの光が暗闇に上ったところでもある。 人間をとる漁師ペテロ達も思い浮かぶ。
また立琴は、主に対する賛美を表す。ダビデ、ソロモンの時代は、立琴によって主への賛美がささげられた。
立琴は、万軍の主の勝利の御手による、神の栄光と大能とを現していると思われる。〈黙示録15:8参照〉
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