2014年12月24日水曜日

世界に広がる神の祝福*クリスマスキャロル*チャールズ・ディケンズ著

おもしろブログ特集
クリスマスキャロル*チャールズ・ディケンズ著


 クリスマスキャロルは、主人公のスクールジーが、過去・現在・未来という三つの精霊との出会いを通して、自分自身を見つめ直し改心して行く物語である。
 クリスマスイブに心を変革された彼は、クリスマスに神の愛と恵みに感謝しながら、人々と愛しあう関係の中で生きて行くことを決心する。

 クリスマスキャロルは、人間が神の愛と恵みに気づき、悔い改め、新しい人生に出発するという
キリスト教の考え方を土台としている。
 イギリスというキリスト教が一般的であった国で、チャールズディケンズは、クリスマスの根底に流れる神の愛の心を、人々の心や感性に訴えつつ分かりやすく書いたのかもしれない。

 近年、クリスマスキャロルは、ディズニーより、マペットのクリスマスキャロル(人形劇を使った優れもの)や、アニメ・クリスマスキャロルが出され、長い間世界中の人々に読み継がれた話が、再び脚光を浴びている。

 マーレー兄弟は死んでいる。
 こんな不思議な言葉で、クリスマスキャロルの物語は始まる…。
 クリスマスイブの夜の事だった。
 主人公のスクールジーの前に、金銭欲に捕らわれたまま死んだマーレー兄弟の幽霊が現れる。
 彼らは獄に繋がれ鎖に縛られている。
「俺たちのようになりたくなければ、悔い改めろ!」そんな言葉を残して彼らは消えて行く。
 その後、スクールジーの前に現れたのが、過去・現在・未来の精霊てある。
 主人公のスクールジーは、過去の精霊によって貧しく孤独だった幼い頃から、お金に重きを置いて行く青年時代を再び体験させられ、過去を振り返る。
 お金に心を捕らわれた青年のスクールジーは、婚約者との破局を招いてしまう。その別れのシーンに悲痛な叫び声をあげるスクールジー…。

 そんな彼の前に今度は現在の精霊が現れる。現在の彼は、金貸しで金持ちだが、どケチで町の嫌われもの。
 冬の寒さの中、貧しい人々が飢え死しないようにと寄付をもらいにきた人達に「死ぬなら死なせておけ」と追い返すスクールジー。
 そんな彼を、現在の精霊は、彼の会社の部下のクラリジット一家の所に連れて行く。
 クラリジットの一家は、スクールジーが給料をケチるので貧しいが、暖かい家庭である。
 感謝しながら、スクールジーの為に神に祈っているクラリジット一家の愛によって、スクールジーは今の自分の生き方を見つめ始める。
 そして、そんな彼のもとに、最後の未来の精霊が現れる。
 自分の死を喜ぶ人々を眺めるスクールジー…。
 
 人生は終わってしまえば、もうやり直すことができない。
 もし、生き方を変えるとしたら、それは生きている間である。そして、それは今かもしれない。
 なぜなら、人はいつ死ぬかわからないからである。今日元気でも明日生きているかの100%の保証など誰にもないのだから。

 主人公のスクールジーは、クリスマスイブの一晩で生き方を変えた。
 自分が金銭欲に捕らわれ、周りの人々に冷たくケチな生き方が、罪深い生き方であることを悟った彼は、神の愛と恵みが何かがわかったのだ。

 クリスマスに、イエスキリストが来られた意味は、人を罪の生き方から解放し、新しい人生を与えるためである。そこに、神の愛と恵みがある。
 そのことに気づき、クリスマスの朝、神に感謝をささげるスクールジー。
 彼は、自分の人生を良きものとする為に、人を愛し大切にすることを選んだ。
そして、神に祝福される人生を歩んだのである。


ともすれば、私たち人間は、普段日常生活の忙しさに追われ、自分の生き方がこれで良いのか、自分自身の人生の意味を考える機会を持てない中にいる。
 クリスマスキャロルは そんな私たちに、自分の人生を見つめ直す良い機会を与えてくれる、そんな作品である。







2014年12月21日日曜日

真実な愛の心☆イエスの生涯よりⅢ



「神さまの大きな喜び」


2014年9月21日礼拝メッセージより 聖書箇所ルカ福音書15章1~7節


聖書は色々な読み方ができますが、イエス様は、どういう状況で、誰に、何を語られたか?その視点で聖書を読むことが大切だと思います。

今日も先週の続きの箇所ですが、聖書箇所はルカ15章で、大変有名な箇所です。
今日はここから、イエス様は、どういう状況で、誰に、何を語られたか?何をしに来られたか?もう一度、学びたいと思います。

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
15:2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人(イエス)は、罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。〈ルカ15:1. 2〉

取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして、イエス様のところに近寄ってきた。
イエス様は、彼らを受け入れて、食事をしていたようです。それを見た、ユダヤの宗教指導者たちは、このイエスは、罪人たちを迎えて、食事まで、一緒にしているではないか、とつぶやいた。どういうこっちゃ、といいがかりをつけていた。



当時、どういう人が『罪人』と断定されていたのでしょうか?
それは犯罪を犯した、犯罪人を指すのではない。
次のような3種類の人たちです。

取税人=ユダヤ人でありながら、ユダヤ人から税金を取立て、ローマに収める職業に就いている人。自分たちを支配しているローマ人の手先となって働く人たち。
盲人、らい病人、水腫を患った人=ユダヤ人なのに、宗教的に汚れている人たち。神に呪われている人として、扱われる病気。
異邦人=ユダヤ人以外のすべての民族。





罪人とレッテルを貼られた人たちの苦しみには、3重の苦しみが伴います。

   病、障害、そのものによる生活上の困難さ 
目が不自由だったり、人に感染する病、その他どんな病気でも肉体的な障害、精神障害、知的障害でも、生きづらさ、生活上の不自由さがある。本人やその家族でないと、その苦しみや痛みが分からないような苦しみがある。

   宗教的な偏見、差別、排除
これも苦しい。宗教的な偏見、差別、排除。これらはどのようにして生まれるのでしょうか?

例えば、旧約聖書の申命記では、イスラエルの民と神様が、荒野で契約を結びました。

神に従えば、祝福される。⇒その状態(結果)は、繁栄。
神に逆らえば、呪われる。⇒その状態(結果)は、貧困、特定疾患。

もちろん、神様はご自分の民を祝福したいのです。
でも、解釈する人間の側では、どう受け取ってしまうのでしょうか?
二元論では、祝福か呪いか。繁栄か貧困か。どっちかで中間はありません。二者択一のどっちかです。
もう一つは因果応報という考え方で、原因があり、結果がある。
親の因果が子に報い、やってならない神への姿勢が原因となり、現在の結果を招くという考え方です。
現在、こういう結果になっているのは、神に対する態度が、ああだったから。
現在、金持ちで、健康なのは、神に祝福されている証拠。
現在、貧乏で、不治の病で苦しんでいるのは、神に呪われている証拠。

この考え方は判りやすく、人間の思考にぴったりはまる。でも、恐ろしいと思いませんか?
なぜなら、今日お金持ちで、健康だから、神に祝福されている。でも、お金がなくなり、この病気にかかったら、神に呪われているというレッテルを、社会から貼られてしまう。

実例はヨハネ9章にもあります。病と罪を直結させる考え方です。
こういう、二元論と、因果応報が、ユダヤ社会の人々の考え方と生活にも、深く根を下ろしていた。
そんな扱いされたら、本人も、その家族も、辛すぎますよね。

そのように、二元論と、因果応報の読み方で、彼らに、罪人のレッテルを貼るのは、誰?
神様?いや宗教指導者たちでした。宗教指導者の言うことは、良いも悪いも、影響力が強い。
そうすると、町の一般人も、そうなんだ!あの人たちは神に忌み嫌われている!と町中の人からレッテルを貼られる。
家の中での、家族の会話は、
「あの人たちと交際しては、ダメよ。あの人たちと食事をするなんて、ダメよ、ダメダメ。」
親は子供にそう教える。それが、ユダヤの宗教文化として、出来上がることは恐ろしいことです。
こういうことは、ユダヤの国だけでなく、日本も含め世界中で今もあるのではないのでしょうか。
こういう二元論的な聖書の読み方や因果応報的な聖書の読み方は、果たして正しいのでしょうか。それがイエス様が教えておられる聖書の読み方なのでしょうか?

   民族としての誇り、アイデンティティーの剥奪
彼らは、ユダヤの民としての誇り、アイデンティティーを剥奪されていました。これも辛いことです。
どの民族も、民族としての誇り、アイデンティティー(自分の存在意義)を持つことは、生きていく上で大切なことです。

先日、TVニュースで、32歳の女性、生まれた時、両親の複雑な状況によって、日本人なのに、32年間、戸籍がなかった。自分は一体何者なのか、証明するものが無い。辛かったと思います。
戸籍がないために、結婚、就職、国家資格も取れなかった。自分はここに属していると誇りを持って主張できることは、生きていく上で大切なことです。

ユダヤの人たちにとって、民族的な、自尊心、誇り、アイデンティティーは、どこにあるのでしょうか?
自分は、信仰の父アブラハムの子供、アブラハムの子孫である。これが大切なようです。
つまり、血筋、血統、ルーツが大事なのです。
私は、アブラハムの血筋、血統なんだ。それが、安心、誇り、アイデンティティなのです。
だから、ユダヤ人は、系図を大切にする。
旧約聖書を読んでみると、至るところに、系図が記されている。誰々は、何歳で、誰々を生んだ。誰々は、何年生きた。その子供は、何歳で、誰々を生んだ。誰々は、何年生きた。・・・
私たち日本人には、ほとんど関心がない記述。でも彼らにとっては、非常に重要です。

新約聖書を見ても、新約聖書の最初は、ユダヤ人に向けて書かれたマタイ福音書。
最初に書いてあるのは、いきなり、アブラハムから始まる系図が書いてある。
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父・・・。と、信仰の父アブラハムから始まって、イエス・キリストまで、延々と系図が書いてあるのです。

余談ですが、新約聖書の最初が、いきなり系図だから、それで聖書が嫌いになる人多い。
新約聖書の最初に、もし異邦人に向けて書かれたルカ福音書が最初に置かれていたら、もっと、聖書に親しむ人が増えるのになあと、私はそう思います。

いずれにしても、ユダヤの人々にとって、自分たちのルールは、信仰の父アブラハム。自分はその子孫。これが、自分たちの誇りであり、アイデンティティーであり、自分の存在の拠って立つところなのです。
しかし、罪人とレッテルを貼られた人は、ユダヤ人でありながら、民族としての誇り、アイデンティティーを奪われ剥奪された人たちです。そして、罪人とレッテルを貼られることは、神に呪われているとされていた訳ですから辛いことです。
このように、彼らは、二重、三重の苦しみ、もって行き場のない苦しみの中におかれていました。

今日の聖書箇所に戻ります。
そのような、持って行き場のない、苦しみを抱えている人たちが、イエス様から、話を聴こうとして、イエス様の元へ、やってきた。
”罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。”〈15:1〉
イエス様も、喜んで、食事をしながら、お話をされたと思います。
”するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人(イエス)は、罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。”〈15:2〉イエスがしていることは、おかしいと彼らは思っていたのです!
でも、パリサイ人や律法学者たちとは、実は人々を罪に定め、人々を苦しめている張本人でした。
そこでイエス様は、パリサイ人や律法学者たちに向かって、譬えを話されました。
15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

わたしにとっては、みんな、一人ひとりが、大切な羊なのです。わたしの元から、迷い出て、不安の中にいる羊が、一匹でもいたら見つかるまで探しに行きます。そして、見つけて戻ってきてくれたら、どんなに嬉しいことでしょう。
罪人と、レッテルを貼られ、苦しんでいる人が、わたしのところに来てくれることが、わたしにとって、どれだけ嬉しいことでしょうか。
いいですか。取税人という職業の種類によって、あるいは、盲人、癩病とか、病気の種類によって、神がその人を罪に定めているとか、その人が神に呪われているとか、全く関係ありません。
もちろん、職業や、病気の種類で、ユダヤの民としての誇り、アイデンティティーが奪われることなど、決してありません。その誇りを持って、生きてほしい。
アブラハムの祝福が、ユダヤ民族にあるなら、この人たちにも、あるのです。
この人たちこそ、神様に愛されている存在です。
イエス様は、イエスの立ち振る舞いを見て、つぶやいている、パリサイ人や律法学者たちに、
向かって、きっと、このように言い返されたのではないでしょうか。

ですから続けてイエス様は、パリサイ人や律法学者たちに向かって、このようにおっしゃいました。
15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。


悔い改めとは⇒神に立ち返ることです。

この人は神に呪われている、この人は罪に定められている、この人は神に赦されていないと決めつけられて、行き場のない苦しみの中で、もがき苦しんでいる人たちのうち一人でも、私のもとに
来て、そして、自分もアブラハムの子供なんだ、自分も神から祝福されているんだ、自分も赦されているんだ、と受け取ってくれるなら、私にとってどんなに大きな喜びでしょうか。

イエス様は、メチャクチャ嬉しいんです。
その喜びは、自分は生まれつきアブラハムの子孫であり、自分は神の国に入ることが約束されている、自分は罪に定められていない、だから安心だとおごり高ぶっている人たちのことよりも、
神様にとっては、はるかに大きな喜びなのです。
イエス様は、人々を苦しめているパリサイ人や律法学者たちに向かって、きっと、このように言いたかったのではないでしょうか。

今日のところを通して教えられることを3つ取り上げます。

1、イエス様が見ておられるように、自分を、そして人を見る。
イエス様は、罪人たちと食事をしていたけど、心は、目の前にいる人を、この人は、神に呪われているとか、罪に定められているとか、罪が赦されていないとか、見ておられなかった。
目の前にいる人を、神様に愛されている存在として、扱い、そのように接しておられた。
だからイエス様は、人から批判されても平気。人から文句を言われても動じませんでした。

聖書のガラテヤ2章には、初代教会時代のイエスの弟子ペテロの失敗が記されています。
ペテロが、エルサレムから、異邦人教会アンテオケ教会に行った時のことです。
ユダヤ人ペテロは、異邦人と、一緒に食事をしていた。ユダヤ人と異邦人が一緒に食事という、一見、麗しい光景。でも、ペテロの、異邦人を見る目は、古いままで変わっていませんでした。

エルサレムから、ユダヤ人が、アンテオケに来ることになった。
ペテロは、異邦人から引くようになり、異邦人とは食事をしなくなりました。
『ペテロは、異邦人と食事をしている』、という変な噂が広まるのではないかと、恐れたからです。
もし、ユダヤ人も異邦人も、神様から見れば、みんな愛されている、大切な存在なんだと心から思っていたなら、異邦人と食事をしているところ、誰から見られようと、自分がどう言われようと構わないはずです。
イエス様のように、堂々と、誰とでも食事をすれば良いはずなのです。
あなたは、どうですか?私自身の心が主に探られます。イエス様が人を見る目と心を養われたいものです。

2、自分の国、民族に誇りを持つ。
私たちの教会には、様々な国籍の方々がお越しです。
それぞれが、自分が生まれ育った国、自分の民族、それを愛し、誇りを持つことが大切です。
イエス様は、民族としての誇りを奪われていた人に、その誇りを回復されました。
イエス様は、ルカ19章で取税人ザアカイに
「あなたもアブラハムの子なのですよ。」と言われました。これは民族としての、アイデンティティーの回復です。
日本では自虐史観が強すぎるかもしれませんね?私たちも、それぞれ自分の国や民族に誇りをもって良いのです。その上で、他の国の人々をも大切にしていく。そのことは、私たちを造り、私たちを愛しておられる神様の御心に叶うことです。

3、神の祝福は、どこから来るのか?
神の祝福は、信仰の父アブラハムの血筋を通して訪れる。これがユダヤ社会の一般常識です。
でも、私たちはユダヤ人ではありません。
では、イエス様は、私たちに何と言われてるのでしょうか?
神様の祝福は、血筋によらず、才能、努力によるのではありません。
ただ、心のあり方が変わりさえすれば、それで良いのです。

では、どのように心のあり方をチェンジすれば良いのでしょうか?
心が、貧しくなれば良い。心が、乞食になれば良いのです。
神様の助けがなければ、私は一瞬たりとも生きて行けません。こういう、心の人こそ、神に祝福されているとイエス様は言われます。
心の貧しい人は、神に祝福されている。なぜなら、神の国は、その人のものだから。
その人こそ、神の愛の支配の中に生活しているのです。



「こころの貧しい人たちは、さいわいである(神に祝福されている)、天国は彼らのものである。」
〈マタイ5:3〉




真実な愛の心☆イエスの生涯よりⅡ


私の晩餐にあずかる者



2014年9月7日礼拝メッセージより 聖書箇所:ルカ福音書14章15~24節

先週の続きの箇所なので、おさらいします。
状況は食事会。どういう人が、どういう人を招いている食事会でしたか?
ユダヤ教のパリサイ派のある指導者が、自分の家に、律法の専門家であるユダヤ教の宗教指導者たちを招いての食事会。
社会的な地位や名誉を持った人が、社会的な地位や名誉を持った人たちだけを招いての食事会でっした。そこにイエス様も招かれていたわけです。

なぜかその中に、お呼びでない人、招かざる客が一人いた。それは水腫という病をわずらった人でした。
当時、水腫という病気は、神に呪われた証拠でした。律法の専門家たちからは、水腫は、不品行の罰である、性病の一種と呼んでいた。その、神に呪われていると、レッテルを貼られた、水腫を患った患者が、自称エリート集団の食事の席にいる。なんで?そして、彼の真正面には、イエス様がおられた。

皆は、イエスをじっと、見つめていた。その日は安息日で、仕事をしてはいけない日。パリサイ派の指導者達は律法を勝手に解釈し、病人を癒すことも仕事になると思っていました。
イエスは、どうなさるのか?興味津々。イエスがこの病人を癒したら、律法違反で訴えてやろうとパリサイ人達は思っていたかもしれない。これが、事の発端でした。

イエス様は、彼らの心の動機が分かったので、質問された。
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
彼らは、今まで考えたことのない、とっさの質問に答えられなかった。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。
イエス様、は規則よりも命を大切にされたわけです。

14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
彼らは、痛いところを、イエス様から、ズバッと、突かれた訳ですね。
彼らは、これに対して返す言葉がなかった。きっとその場は、重苦しい空気になったでしょう。

また、その食事に招かれた人たちは、我先に上座に座ろうとしていた。それを見てイエス様は、招かれた人は、自ら上座に座ってはいけない。末席に座りなさい。また彼らはイエス様から、耳の痛いことを言われた。

さらにイエス様は、招く側の人に対しても、
祝宴を催すばあいには、お金持ちなどを招くのではなく、むしろ、貧しい人、身体の不自由な人、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです・・・と言われた。

特定クラスの人たちばかりを招いて、交際するのはエゴではかいか・・・。
イエス様からケチョンケチョンに言われ、楽しいはずの食事会が、イエス様のせいで台無しに。重苦しい空気になった。その時、
イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。〈ルカ14:15〉
突然一人の人が、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」、と発言したのです。

最近KYって言葉が流行っていましたよね。場の空気を読めない人のこと。重苦しい空気が漂っている時、混乱状態に陥った時、とっさに、訳の分からない言葉を口にしてしまうことってありますよね。聖書の中では、思い当たる箇所ありますか?ペテロがまさにKYだったことがある?

イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、3人が語り合っていた。あとの二人は、モーセとエリヤである。二人も、栄光に包まれていた。モーセとエリヤがイエス様から離れようとした時、
ペトロが言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。とっさに、その場の空気を変えようとペテロはそんな言葉を口にしたのかもしれません。

今日のところでも、そういう感じだったかもしれません。重苦しい雰囲気の食事会になってしまっていた。
とっさに、一人の人がイエス様に、先生「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言ったわけです。
でも、そう言った本人も、きっと、自分で何を言っているのか、分かっていなかったのではないか。
でも、その内容は「神の国で食事する人は、幸いである。」でした。その通りです。

神の国。これは聖書で度々出てくる言葉でとても大切です。
イエス様が弟子たちに教えた祈りの中に「神の国が来ますように」と祈りなさいとあります。
天地を創造された神の願いは、ご自身の国が、この地に広がりこの地に浸透していくこと。
では、その、神の国とは、どんな国をイメージしますか?けっこうバラバラかもしれないですね。

話変わりますが、先々週の土曜日、あるビーチでバプテスマ式がありました。
そのビーチへの道は、旧道の161号線をまっすぐ、北に行けば良い。川を渡って、そこを右に曲がれば、すぐ。しかし、場所がよく分からなかったので教会員のご婦人に聞いた。
「その交差点の目印は?」
そのご婦人は「左手に黄色の家がある。そこを右に曲がれば、和邇浜ビーチに着きます。」と教えてくれた。
(私の頭の中は)左手に黄色の家。ところが行っても、行っても、無いのです。
見落とした。行き過ぎたなあ、と思って、ある教会員の方に電話した。行き過ぎたみたい。
『161の国道まで、出てますので、戻ってきてください。』戻ったら、その方が曲がる交差点まで出て来てくれてたので、事なきを得た。

バプテスマ式が無事終わって、帰る時に、私が見落とした黄色の家って、どの家だったのかと見てみた。
あ~そ。これが黄色の家???あのご婦人は、これが黄色の家。私には、どう見ても、ベージュ。
ある言葉を聞いても、イメージや中身が、そんな風に人によって、バラバラではないでしょうか?。

神の国が来ますように、と祈っていても、神の国のイメージは人によって、ばらばらかもしれない。
神の国(英語ではKINGDOM)って?王様であるイエス様がいて、その方の支配が及ぶ領域、主がご支配くださる領域です。それが神の国。
そこでは、神様のご性質が余すところなく表される。
神は愛なので、愛に関わる出来事が、起こされて行く。
そこでは、喜び、赦し、思いやり、励まし、慰め、癒しなどが、平和、和解、回復が起こされている。

聖書の中でパウロは言いました。神の国とは、義と平和と聖霊による喜び、そして力であると。そんなパウロは「私は神との平和を得ました。」と言っています。

神の国の王様であるイエス様は、まず、どこに、神の国を表わしたいと願っておられるのでしょうか?
それは、私たち、一人ひとりの心の中に、神の国が来ることです。
私の心の中に神の国が来ますように。イエス様、私をご支配してください。あなたの心で、私の心を満たしてください。赦す心、弱い者を思いやる心、あなたの知恵、これらで、満たしてください。と祈りましょう。

また、”神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。”〈ルカ17:21〉
特定の場所というよりも、関係の中に神の国が表される。
家族の中に、友人との中に、職場の人間関係の中に、学校の中に、地域の中に、国と国との中に。御国の王イエス様を歓迎した時、赦し、思いやり、励まし、慰め、癒しなどが、平和、和解、が訪れます。ですから神の国が訪れますようにと祈りましょう。


今日の聖書箇所に戻ります。
楽しいはずの食事会が、重い空気になってしまった。とっさに、ある人の口から出たのは、
「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」
その発言を受けてイエス様は、どうされたか?イエス様は、その場にいた社会的な地位や名誉を持った人たちだけの祝宴の場で、彼らに向かって、神の国における大宴会について、喩えをもって話された。

14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
14:18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

当時、人々を祝宴に招く時、2回、招待状を出していました。
何ヶ月前に、一回目の招待状を出します。受け取ったら、行かせていただきますと、返事します。
直前に、2度目。用意が整いました、どうぞ、お越し下さい。と招きます。2度目の招待の後に、ドタキャンする人は、招いてくれた人に対して、大変失礼な態度なわけです。招いてくれた人に対し、宣戦布告するようなものです。招いた人から見ると、
「俺に喧嘩売っとんのか!そんな、失礼な態度。」そう思われるにも関わらず、皆、同じように断りました。

祝宴を断る理由は?

『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
『結婚したので、行くことができません。』
3つの断る理由ですが、招かれた祝宴の日に、どうしても優先しなければならない用事ではない。

わざわざ、この祝宴に招かれた日に、ぶつけなくても良いじゃないですか。この日を外して、別の日に、畑見に行ったら良い。別の日に、牛を試しに行ったら良い。別の日に、結婚式の日取りを決めたら良い。これらは、行きたくないことの口実ですよね。
(行きたいけと、行けない時は、こういう理由で行くことができません。正直に言える。
行きたくない時、バレバレの、口実を作る。)

この喩えがユニークなのは、ここから。盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた、主人の言動です。
14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した(皆、同じように断りました)。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』
14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

私たちも、人を招いて、食事会を開くことがある。ドタキャンされることもある。
招待客から、断られたからといって、この主人のようにはしない。

この神の国の例え話を、宗教指導者、律法の専門家たちは、イエス様から直接聞いている。話の内容は理解できたと思う。でも、彼らは、イエス様が何を言いたいのか、分からなかったと思う。
でもそれは、当時の、宗教指導者、律法の専門家たちだけでないと思う。
規則と伝統と組織を守ることに熱心な人たち。
自分は、誰よりも熱心に神に仕えていると、疑わない人たち。
イエス様に従って行こうなんて、考えたことがない人たち。
特に、そういう人達には、イエスの神の国の譬え話は、理解不能かもしれません。

イエス様は最後に、
「『よく言っておきますが、招待されていた人たちの中で、私の晩餐にあずかることのできる人は一人もおりません。』神の国で食事をすることは、確かに幸いなことですが、はたしてその幸いに入れる人は、だれなのでしょうか。」現代訳

聞いている人たちは、ショックです。自分たちこそ、神の国の晩餐に預かることができると信じている人たちだったから。
でも、イエス様から問われたことは、『神の国で食事をすることは、確かに幸いなことですが、はたしてその幸いに入れる人は、だれなのでしょうか。』
先ほどの例え話で、宴会に招待されていたのに、直前で断り、ドタキャンして、失礼な態度に出た人たちって、ひょっとして、自分たちのことを言われているのかなあ?ようやく気づいてたのではないでしょうか?。

イエスの晩餐(食事会)

イエス様が彼らに言いたかったのは、
あなたがたは、規則や制度を優先し、貧しい人、弱い立場の人を切り捨てている。その一方で、自分は神に招かれている。自分は神の国で食事ができる、自分は救われている、自分は大丈夫と、たかをくくっているのではありませんか?本当に大丈夫ですかと。

でも、私の晩餐は、そうではありません。ただ、私の誘いを喜んでくれて、私の晩餐に喜んできてくれる者たちと、私は、一緒に、食事をしたい。そして私は、彼らが、仲良く楽しく食事をしている姿を見たい。だから、そういう人たちを探してきなさい。
『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

では。、イエスの晩餐にあずかることができる者の条件とは何でしょう?
イエス様の招きを喜び、感謝し、イエス様の晩餐に喜んであずかりたいと願う者なら誰でもOKなのです

大切なのは、イエス様に対する、感謝の心、感謝の気持ちです。
ですから、イエス様、この私をも、招いてくださり、感謝します。
私は、イエス様の晩餐に喜んであずかりたいです。
イエス様、私のために、尊い命を捨ててまで、私を愛して下さり感謝します。私は、イエス様が命じられた教えを守り、従います。また、人にも、守るように教えて行きます。そういう心が大切なのです。


その心が起こされた方は、ぜひ、キリスト教会に足をお運びくだるよう切に願います。





真実な愛の心☆イエスの生涯よりⅠ



イエスキリストは、真実な愛を人々に現しながら、この地上でその生涯を送った。
真実な愛の心とは何か?
そこで今回は3シリーズに渡って、ある教会の牧師先生のメッセージを紹介する。

イエスキリストは、罪人たちと食事をしていたけど、イエスの心は、目の前にいる人を、この人は神に呪われているとか、罪に定められているとか、そのようには見ておられなかった。
目の前にいる人を、神に愛されている存在として扱い、そのように接しておられた。
新約聖書の当時、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして、イエス様の所に近寄って来た。
イエス様は彼らを受け入れて、食事をしていたようです。
それを見たユダヤの宗教指導者であるパリサイ人たちは、イエスは罪人たちを迎えて食事まで一緒にしているではないかと、つぶやいた。どういうこっちゃと言いがかりをつけていた
(シリーズ3より)


命、それとも規則



2014831日礼拝メッセージより  聖書箇所:ルカ福音書14章1~6節

最近、簡単な質問に、答えられない自分がいることに気づかされる。例えば次の質問です。
「人間の心の中に、生まれつき、愛する心はありますか?」この質問に、皆さんなら、どう答えますか?
先日、広島で集中豪雨が発生し、土石流で多くの方が被害に遭われた。その後、誰から、頼まれたのでも、強制されたのでもなく、多くの方々が、支援活動に加わっておられる。明らかに、人間の心の中には、生まれつき愛する心がある。与えられていると、考えられずにおられません。

でも私は、この質問に、口ごもってします。なぜなら、神学校で、ある教理を叩き込まれてきたから。その教えとは、『最初の人アダムは罪を犯して堕落した。自己中心になった。愛を失った。私たちはその末裔。』と教えられてきたから。でも、神学校で叩き込まれたこの教理、本当に正しいのだろうか?今更ながら、疑問を感じ始めている、今日この頃です。

ところで、どの国民にも、どこの民族にも、生活に深く根付いてる習慣や決まりがある。
例えば、私たち日本人なら、家に入ったら靴を脱ぐ、そんな風に国や民族によって、色々な生活習慣があるものです。 

聖書の文化的背景は、ユダヤ人の生活がベースになっています。
ユダヤには、安息日規定というがあって、これが当時のユダヤ人の生活に深く根を下ろしていた。
安息日は、金曜日の日没に始まり土曜日の日没までで、その日には何百という決まりや規則がありました。
ユダヤ人たちは、一生懸命その規則を守ろうとしていた。その規則を守ることが、神に忠実に生きる証しであると考え、疑いを持っていなかったのです。

ところが、イエス様の目には、それは的外れに見えていた。イエス様は、彼らの安息日規定の捉え方がズレている、そう感じておられたようです。
安息日論争と言いますが、イエス様と旧約聖書に精通していた律法の専門家であるパリサイ派の指導者たちとが、度々論争となっていたことが、聖書に度々出てきます。
今日は、『命、それとも規則』かを、聖書のルカ福音書14章から学びたいと思うのです。


14:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
14:2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。
14:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
14:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
14:6 彼らは答えることができなかった。
 〈ルカ福音書14章1~6〉





イエス様は、パリサイ派のある指導者から、その人の家に食事に招かれたようです。
イエス様だけでなく、他にも何人かの人が食事に招かれていた。
その時、みんながじっとイエスを見つめていた。なぜでしょうか?なぜ、皆、イエスをじっと見つめていたのでしょうか? 

私は不思議だと思いました。本来ならこの場面、イエスの真正面にいる水腫を患っている人を、皆はじっと見るのではないかと思ったのです。というのは、当時、水腫という病気は、神に呪われた証拠でした。レビと言われる聖書の教師たちは、水腫は不品行の罰である性病の一種と呼んでいたようです。
その神に呪われているとレッテルを貼られた水腫を患った患者が、この食事の席にいるわけです。
水腫を患っている人は、招かれた客ではなく、招かれざる客だったと思われます。 
招いていないのに勝手に来たと、皆思っていたかもしれない。  
「なんで、あなたがここに居るの?」と、心の中で思いながら、食事に招いた人も招かれた人も、皆この人物をじっと見つめるのではないかと思ったのです。
しかし、この状況で皆は、水腫を患っている患者の方ではなく、彼の真正面にいるイエスをじっと見つめていた。なぜでしょうか? 

パリサイ派の人たちは、「イエスはどうされるのだろう?。今日は安息日だ。イエスは、この水腫の人を癒やすのだろうか? 」と興味津々、イエスをじっと見つめていた。
「もし、イエスがこの人物を癒やしたら訴えてやろう」と思っていたのかも。
(安息日にはどんな仕事もしてはならないという律法の規定があった。)

そこでイエスは、得意な質問をされた。
イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも良くないことですか。」と言われた。14:3
イエス様は、律法の専門家であるパリサイ人たちに、律法に対する質問をされたわけです。
しかし、彼らは黙っていた。
彼らとは、旧約聖書に精通していた律法の専門家たちです。だから、答えは簡単だと思う。なのに、彼らはなぜ黙っていたのか?。
答えを知らなかったわけではなかったと思う。いやむしろ、律法の専門家たち、宗教指導者たちだからこそ、答えることができなかったのかもしれないですね。

律法の専門家たちというのですから、彼らの関心は、『律法を守っているか、どうか。守れているか、どうか。』でした。
彼らにとっては、物事を規則に基づいて判断することが重要。それが自分の使命である、と考えていたのではないか。常日頃から。頭の中は、規則で、塗り固められていた。

神様のお心は何か?という発想ではないんですね。
普通に旧約聖書を読めば、神のお心がいたるところに散りばめられています。
困っている人、弱っている人、病気の人に目を留めてみなさい。そういう人たちを大切にしましょうと、神の心が書いてあるわけです。
今、まさに目の前に、水腫を患っている人がいる。旧約聖書を常日頃読んでいる彼らなら、『自分は、この人のために何ができるかなぁ。癒されたら良いのになぁ。』と、その人に憐れみの心が湧いてきても良いはずです。

でも、頭の中は、イエスは、安息日の決まりを守るのか、破るのか?イエスが律法を破って、この人を癒したら、すぐさま訴えよう、という正義感。すべての関心はそこにあるだけ。
だから、イエス様から、突然、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と、突然質問されても、答えることができなかったのでは。

イエス様の質問に対し、律法の専門家たちが黙っていたので、それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。〈ルカ14:4 
イエス様は、なんの迷いもなく、公然と安息日に、この水腫を患っていた病人をその場で癒やして、そして「帰りなさい。」と、お帰しになられた。
”イエス様は、「安息日に良いことをするのは正しいのです。」”〈マタイ12:12で、こうおっしゃいましたが、まさにこの時に、そのお言葉を実行されました。
イエス様は、規則よりも命を大切されました。その人自身を大切になさったわけです。




またイエス様は、律法の専門家たちに、もう一つの質問をされました。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
と質問された。今度こそ、答えは簡単ですよね。
自分の息子や自分の牛が、井戸に落ちたら、『ごめんね、今は、助けられないのです。土曜日の夕方が過ぎたら、助けますから、それまで、我慢してちょうだい。』そんなわけない。
すぐに助けます。すぐに、必死になって、引き上げます。答えは簡単です。でもイエス様の質問に、
14:6 彼らは答えることができなかった。(口語訳では、彼らはこれに対して返す言葉がなかった。)
つまり彼らは、痛いところを、イエス様から、ズバッと、突かれた訳ですよね。そういうことってありますよね。

さぁ、皆さん。本音が表れる所ってどこですか?いつ、どんな時に、本音が出ますか?
自分のことや自分の家族。自分の家族同様に大切に扱っているものとの関わりの中、そこに本音が出る。
そこに命を大切にする心とか、愛する心が自然と湧き上がって、それを心から実践する。
これは、私たちの人生にとって、生活にとって大切で、とても貴いことです。

では、何が問題なのでしょうか?
家族には命や愛を大事にし、家族以外の人には、これが決まりだから、これがルールだからと言って、規則や大義名分で決める。
このように使い分けることが問題なのではないでしょうか? 
自分のこととなったら、自分の親しい関係の人のことなら、愛と命を、当然最優先する。しかし、水腫を患った病人のような、招かざる客、つまり、他人事、机上の空論には、ルールや規則を優先し、規則を適用する。たとえ、死にそうな人が目の前にいても、命は後回し。
こういう使い分けを、エゴイズム、自己中心と言いますね、あるいは二心、英語ではダブルスタンダードと言います。
「あなたはどうですか?」と、私も含めて私たちの中に、使い分け、二心、ダブルスタンダードはありませんかと、イエス様は私たちにも問われているのではないでしょうか?



私たちは、こういう社会の中で、様々なルールや、規則に囲まれて生活しています。ねばならない、という大義名分があります。そういう中で生活していると、物事を判断する時、時として、何を基準に判断して良いか?分からなくなることがありますよね。
様々な出来事に、直面した時、決め手は、どこで判断すべきか?分からなくなる。そういうことはないですか?私もそういうことで悩んでしまうことがあります。

では、どうすれば良いのでしょうか?
本音は、どこに出るか?そこに着目すれば良いのです。
どういう時、命を大切にする心、愛する心が、自然と湧き出てくるか?そしてそれを実践しますか?
自分のことや、自分の家族に起こった素晴らしい事を、その時だけに当てはめるのではなく、全ての物事を決める時にも、それを適用するのです。
自分のことや自分の家族に何かが起こった時と、同じ心、同じ対処の仕方で、様々な出来事に直面した時、対処する。これがチャレンジではないでしょうか?

これは一つの例話なんですが・・・・。
あるクリスチャンのご婦人がいました。彼女は、自分が属している教会のことを、あそこがどう、ここがどう。あの人が・・・。不平、不満を抱いていた。
ある時、自分の娘さんが、結婚した。結婚相手は、牧師さん。
自分の娘が、牧師夫人として、嫁いだ。
自分の娘の、嫁ぎ先の教会は、教会員が10名~20名。
自分の娘の、嫁ぎ先の教会でも、教会員の不平不満がある。その不平不満牧師夫人である自分の娘に入る。
牧師夫人である娘さん、聞いてもらうところがないから、辛い思いを、自分の母親に電話して、聞いてもらう。お母さんは、どう変えられたか?自分の娘が仕えている教会のために、一生懸命、祈るようになった。何と言っても、自分の娘が仕える教会だから。そこに本音が表れる。
しかしお母さん、それだけでなく、自分が属している教会のためにも、一生懸命、祈るように変えられた。教会を愛し、心から教会に仕えるようになった。そして、すべての教会のために祈るようになった。

これは一般的によくある二心、ダブルスタンダードの例ですが・・・・。
ある人が、公務員のことを、良く思っていなかった。税金使って・・・。楽して・・・。
自分の息子から、電話がかかってきた。『俺、公務員試験受けようと思うのだけど、どうかな?』
『公務員?良いと思うよ。』これが本音。彼は自分の息子に関することで話した言葉に、自分の本音が表れた。
このように、使い分ける態度は、先ほどの聖書に登場していた、律法の専門家の態度。エゴイズム、自己中、二心、ダブルスタンダードだと言えるんですよ。
自分の息子に関する時に出た、自分の言葉が、本音。とするなら、その目で、公務員の方々を見る。公務員の方々は、私たち国民のために、市民のために、日夜仕えてくれている。有難いな~。そのように、変えられていけば良い。

まとめ
安息日規定を守ることを教えるパリサイ派の指導者であっても、自分の家族、自分の身内の命を愛し、優先していた。でも彼らは身内以外になると、律法、規則を当てはめようとしたり、使い分けていた。そのエゴイズムを、イエス様は、指摘されたというわけでしたね。

今日の聖書の場面では、招かれた人と招いた人がいた。招かれた人たちは、我先に上座に座ろうと、していたんですよね。

イエス様は、招かれた人に対してこう言われた。
自ら上座に座ってはいけない。末席に座りなさい。招いた人に、どうぞもっと上席にどうぞ、と言われたら、その時は、そうしなさい。そうすることによって面目が保たれます、と言われました。

また、イエス様は、招く側の人に対して、
14:13 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足の不自由な人、盲人たちを招きなさい。
14:14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
招く人は、お金持ちなど、特定クラスの人たちばかりを招いて、交際するのはエゴの表れではないでしょうか?
この人を招き、この人を招かない、と区別する原理は、エゴイズムではないですか。

真の謙遜は、計算しない慎み。使い分けしない正直さにあります。
自分のことに関する時に出てくるその素晴らしい本音の愛を、どの場面にでも適用していく真実さ。
何よりも、神様がおられて、ちゃんと見ておられる。というその信仰さえあれば、それで良し、ということだと思います。