2013年9月22日日曜日

エリヤ


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祈りを聞かれる神


 
 私たち人間は、漠然と神に祈ってる。しかし、神に祈りが聞かれると本当に期待しているだろうか?

 クリスチャンはよく祈りが聞かれる事を、恵みの雨が降ると言う。

 一体それはどういうことか?


 預言者エリヤの祈りは、力あることで知られている。


 エリヤは、「主こそ神である」の意味である。 
 
 

 エリヤは、BC900年頃、北王国イスラエルで活躍した預言者だった。

 彼は、「毛衣を着て、腰に革帯を締めた人であった」〈列王記1:8

 
 エリヤは、北王国イスラエル最悪の王アハブと、その妻悪女イゼベルと対決し、彼らの悪事のゆえに三年半雨が降らず、干ばつとなると預言した。 
 

 その後、エリヤはヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに住んだ。そこで、主は烏にエリヤを養うように命じられた。

幾羽の烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉を運んで来た。列王記17:6


【カラスに養われたエリヤの行く末】〈列王記17:4-6

 中華料理では、ツバメが唾液で固めた巣が美味とされる。

 美食家だったのか、エリヤも、カラスの唾液で湿ったパンと肉をゲッ  

 今日も保健所に通報せねばなるまい。

鳥インフルエンザ警戒警報発令 エリヤを隔離せよ・


これじゃー保健所は、主の預言者たちで一杯である…。

何度も言うけどそんなことはメッゲナイト!そんなことは絶対にないのだった。だから、真剣に書くと

 
 エリヤが干ばつを預言して三年六ヶ月経った後、エリヤは再び、アハブ王と悪女イゼベルの前に現れた。

 宮殿のすぐ側に野菜畑が欲しいと言うアハブ王の我がままを叶える為に、悪女イゼベルが、偽証と殺害によって、ひとりの民からブドウ畑を盗んだのだ。

 悪女イゼベルはまた、イスラエルの国に持ち込んだ偽りの神、バアル礼拝のゆえに多くのイスラエルの神の預言者を殺害したのだった。


 預言者エリヤは、イスラエルの民が惑わされないように悪女イゼベルと対決し、真実な神を明らかにした。  エリヤは、イスラエルのカルメル山に、イスラエルの全国民と、イゼベルに従う偽預言者を集め、そして言った。

「もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」

 そこでエリヤは、二頭の雄牛を用意させた。そして、バアルの預言者とエリヤが一頭ずつ取り、それぞれが神の名を呼び、どちらの神が火をもって答える真の神なのかを対決したのである。

 バアルの預言者達は、朝から昼までバアルの名を呼んだが、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、踊り回ったが、やはり何の答えもなかった。

 そこで、エリヤは、お前たちの神は耳が遠いのか?と皮肉ってみせた。

「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているのか、席をはずしているのか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないのだから、起こしてみたらよかろう。」

 バアルの預言者達は、ますます大きな声で呼ばわり、彼らの慣わしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけて祈ったが、やはり何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。

 しかし、エリヤが、イスラエルの神、主の名を呼び求めた時、主の火が降って来て雄牛を焼き尽くした。

 その結果、イスラエルの民は、「主こそ神です。主こそ神です。」と真の神にひれ伏したのである。 

 イスラエルの神が、エリヤに与えられた勝利によって、イスラエルの民は、イスラエルの神こそ自分たちが従うべき主であることを、再確認したのである。

 その後、エリヤが祈ると、天は雨を降らせ、地は実を実らせたのである。

 エリヤの祈り方は、少し変わっていた。

 エリヤは地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめて祈ったのだ。これは昔イスラエルでは女性が出産する姿だったらしい。

 エリヤの祈りは、神のみ言葉に従い、祈りの力を原動力とした創造的なものだったのである。エリヤは産みの苦しみをしたのである。

 

 エリヤが祈ると、海から人の手の平ほどの雲が上って来た。しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい雨となった。

 神は、エリヤの預言のことばと、祈りと、信仰告白によって、神御自身の言葉を実現されたのだった。

義人の祈り


 真の神を信じていたエリヤの祈りには、大きな力があった。

義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。

 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。〈ヤコブ4:16-1

 義人とは、神に罪赦された者のことである。

 イエスキリストは、私たちの罪を赦すために十字架についてくださった。そのイエスを信じる者は義人とされる。


 イエスキリストを信じる者の祈りは、神に聞かれ、大きな力があるのである。

 
 

イザヤ


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イザヤ

 

 預言者イザヤの宣べ伝え方は、一種壮大だった。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。」こう言って人々に、主の言葉に耳を傾けさせたのだ。

 イザヤ書は、聖書の中の聖書と言われている。

 エデンの園で、アダムとイブが罪を犯し神に背いた創世記ように始まり、黙示録のメシア再臨・新天新地で終わる。

 したがって、聖書が66巻で構成されているのと同じ、イザヤ書も66章で構成されているのである。

 

 イザヤが子供に付けた名前は、長男シェアル・ヤシュブ[残りの者は必ず帰る]の意味で、次男マヘル・シャラル・ハシュ・バズ[分捕り物は素早く持ち去られる]の意味である。 

 

【ホセア家の環境】

〈ホセア1:3-9その子をイズルエルと名づけよ。その子をロ・ルハマと名づけよその子をロ・アミと名づけよ…”

ホセア:「さぁ、食事にしよう。」

子供達:「また、お父さんの料理?お母さんの手料理が食べてみたいな。お母さんは何処に行ってしまったの?どうして僕達の名前はこんななの?」

 ホセア家の家庭は、時々暗い雰囲気に包まれたことだろうこれほど子供がぐれやすい家庭環境はない! 

 

【イザヤの家庭】〈〉“”

マヘル・シャラル・ハシュ・バズ:「お父さん、僕の名前はどうしてこんななの?」

イザヤ:「ヤハウェの神の為さ」

女預言者の母:「もういいでしょ、ホセアさんちはお母さんもいないのよ」

 イザヤとホセアが、同時代の預言者だったのはこの為か? 

 

 旧約聖書の中で、イエスキリストの十字架の意味が描かれている書は、他にないと言っていい。

 イザヤは、イエスが十字架で、人々の罪と呪い、病気まで背負われて、私たち人類の心に光を灯し、平安を与え、その上、天国への道を開かれると預言したのだ。

 しかも、イエスキリストが十字架にかかる約700年前にすでに預言していたのだった。

まことに、彼(イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。〈イザヤ53:4-6

 

 

 

 

 

 







 

 

ホセア

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ホ セ ア 


 ホセア書は、ホセアとゴメルの結婚生活の話で始まる。

 「姦淫の女ゴメルをめとれ」と神に命じられたホセアが、ゴメルと結婚し、三人の子供まで設けるのである。

 しかし、以前の快楽・物質中心の生活が忘れられなかったゴメルは、ホセアのもとから去ってしまう
 ところが、「愛によってゴメルを連れ戻せ」と神によって命じられたホセアは、多くの犠牲を払って家庭に連れ帰る
 ホセアは、多くの犠牲を払ってまでも妻を連れ戻した。
 
 これは、イエスキリストが命を捨ててまでも私たちを愛された、十字架の愛を現している。
 それは、夫としてのイエスキリストの、妻である教会への愛でもある。
 夫と妻が一体であり、富める時も貧しき時も悩める時も愛し抜くことを誓い合った結婚式のように、イエスキリストの愛が決して変わることがない永遠の愛である事を現す。
 
 当時イスラエルの国は、南王国ユダと北王国イスラエルの二つに分かれていた。(BC700年位)
 ホセアは、その北王国イスラエルに遣わされた預言者であった。 ホセアは生まれた子供に、神によって不思議な名前を付けたのである。
 ホセアが、子供に名付けた名前は、長男イズレエルは[神は種を蒔いてくださるの意味]で、長女ロ・ルハマは[あわれみを受けない者の意味]、次男ロ・アミは[わたしの民でないの意味]である。
 しかし、この不思議な名前は意外に私たちと無関係ではない。本書は、神の私たちに対する決して変わることのない深い愛を描き切るのである。
 
同時代の預言者・ホセアとイザヤ
 預言者ホセアは、北王国イスラエルに遣わされ、南王国ユダには預言者イザヤが遣わされたのだった。
 この二人に共通してるのは、神によって子供に変わった名前を付けたことだ。ホセアの子供の名前は上記のとおり、ちなみにイザヤの次男の名前はマヘル・ハシュ・バズ意味は(素早い分捕り物)である。
 
【ホセア家の環境】〈ホセア1:3-9
その子をイズルエルと名づけよ。その子をロ・ルハマと名づけよその子をロ・アミと名づけよ…”
ホセア:「さぁ、食事にしよう。」
子供達:「また、お父さんの料理?お母さんの手料理が食べてみたいな。お母さんは何処に行ってしまったの?どうして僕達の名前はこんななの?」
 ホセア家の家庭は、時々暗い雰囲気に包まれたことだろうこれほど子供がぐれやすい家庭環境はない! 
 
【イザヤの家庭】〈イザヤ8.9章〉
マヘル・シャラル・ハシュ・バズ:「お父さん、僕の名前はどうしてこんななの?」
イザヤ:「ヤハウェの神の為さ」
女預言者の母:「もういいでしょ、ホセアさんちはお母さんもいないのよ」
 イザヤとホセアが、同時代の預言者だったのはこの為か? 
 
だから何度も言うけど、そんなことはメッゲナイト・そんなことあるはずないと思うよ
 
 真剣なことを書くと、
聖書の〈ローマ9:25-29〉に書かれているが、簡単に言えば、イスラエルの民ばかりではなく、世界中の人々に永遠の命に関わるグッドニュースが流れて行く事を示していた。
 愛される資格の無い者、憐れみを受ける資格のない者である私たち人類に、命を犠牲してまでも救う主の愛が世界中に届けられることを現しているのである。
 そして、主が再び来られる時、ユダヤ人イスラエルの民と異邦人である私たちがイエスの妻として、夫である救い主イエスによって天に携え上げられるのである。これを空中携挙と言う。
 
 預言者ホセア(イザヤ)は、世界中の人々に対する神の愛を伝えている。
 
神は、このあわれみの器として、私たちをユダヤ人の中からたけではなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子と呼ばれる」また、イスラエルについては、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのゆうになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」
 ソドム、ゴモラは、神を信じないで堕落し滅びた町である。私たちは、まことの神である主イエスキリストを信じて、永遠の命を与えられ、天の御国に入りたいものてある。
 

マルタとマリヤ

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【マルタの物思い】

 マリヤは、イエスキリストの膝にもたれて話に聞き入っていた。 そこへ忙しく給仕していたマリヤの姉マルタがイエスの所へ来て言った。

「妹のマリヤにも手伝うように言ってください。」

 イエスは答えた。

「マルタよ。なくてはならないものはそう多くはない。いや一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」

 なせか教会のメッセージはいつもここで終わる。しかし、よく思うのだが、これじゃ姉マルタはたまらない…。

 マルタは、きっと天国でこう思っているに違いない。

「ちょっと待ちーな、あんた達。その先は何なの?」

 

 マルタとマリヤとラザロは兄弟だった。

 弟のラザロが死んだ時である。そこへイエスが尋ねて来た。イエスはマルタに質問した。

イエス:「わたしはよみがえりであり、いのちである。あなたはこれを信じるか?」

マルタ:「終わりの日によみがえることは信じています。」

イエス:「あなたはわたしを誰だと思うのか?」

マルタ:「あなたこそ神の子キリストです。」

 マルタはイエスに見事な信仰告白をした後、イエスに気づいていないマリヤの所に行き、マリヤをイエスの所に連れて来たのだった。そして、マルタとマリヤの目の前で、イエスはラザロをよみがえらせたのだった。

 

 マルタの名の意味は、「貴婦人」である。 “あなたこそ生ける神の子キリストです。”という、イエスに対するマルタの信仰告白は、ペテロの信仰告白と同じである。その時ペテロにイエスはこう言われた。それをあなたに示したのは聖霊てある。ペテロはイエスの十二弟子の一人である。マルタは、そのペテロと同じ告白をしたのだった。

 

 今日でもマルタは「ちょ、ちょっと待ちーな、あんた達。」と結こう言いたいのではないだろうか?

そんなことはメッゲナイトと言えるのかどうかは、わからない。

 

 

聖書の権威パウロ

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聖書の権威.パウロ

 

 宝島にこんな話がある。海賊たちが、聖書に手を置いて誓うのだ。

 聖書に手を置いて誓えれば、言っている事が嘘ではなく本当であると、海賊同士が判断できるのである。

「じゃあ、おめぇは聖書に手を置いて誓えっか?」

 

 海賊と言えば、盗みも人殺しも平気でやっていた。じゃあ、神を恐れる気持ちが無かったかと言うとそうでもない。

 海賊でさえ聖書の御言葉の権威、すなわち神の言葉であるイエスキリストの神として権威を認めていたのだった。

 

  パウロ

使徒の働き27.28章より

 さて、パウロ達一行が船でイタリヤに向かった時の事であった。 出航してまもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそれに巻き込まれ、しかたなく吹き流されるままにした。

 パウロ達は暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。

 太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。

 

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。

そして主は、彼らを望む港に導かれた。〈詩篇107:28-30

 

 

 

 私たちの人生は、よく長い航海に例えられる。その中で会う試練という苦しみから主イエスキリストは助け出される方である。そして、港に導かれ、希望と平安の中に憩わされるのである。

主はその行くべき港に導かれる〈〉

 

 

 

エリシャ


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  エリシャ 
 
 地球滅亡を救う為の救い主、また地球最後の日に救い主が現れる、これらのテーマを描く映画も最近はやたらと多いようだ。
 クリスチャンの世界では、これを主イエスキリストの再臨と言う。
 それは、どのようなものなのか?
 今日は、預言者エリシャという人物からそれを見てみよう!
 
 エリシャが生まれ育った家庭は、ヨルダン渓谷にあるごく普通の農家であった。
 エリシャは、北王国イスラエルの預言者として任命され、約50年の間活動した人物だった。 
 
 エリシャが、預言者としての職務に任命される時は、預言者エリヤによって外套をかけられるという方法だった。
 これは神によって、主の預言者としての、エリヤの権威を受け継ぐことを意味していた。
 簡単に言えば、エリヤは預言者学校の校長で、エリシャは主席つまりトップの生徒だったと言える。
 
 エリシャの師であるエリヤが、この世の生涯を終える時は、実に不思議な昇天の仕方をしたのだった。
 主がエリヤを竜巻の乗せて天に上げられたのだ。
 エリシャは、エリヤが天にあげられるまで、エリヤのしもべとして仕え訓練された。
 
 主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられる日、エリヤが、ベテル、エリコ、ヨルダン川の三つの地方を巡り歩くのに、エリシャはトコトンついて行ったのである。それはなぜか?
 
【エリヤとエリシャの関係について】
 エリヤは、ベテルても、エリコでも、ヨルダン川を巡り行く時でもエリシャに言った。「エリシャ。ここにとどまっていなさい。」
“…しかし、エリシャ三度こう言った。「主は生きておられます。又、あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません。」”×3回
 
(結論)エリシャは、エリヤの金魚のフンだった。
 現代ならストーカーってとこか、エリヤが女なら訴えられてる。
だから何度も言うけど、そんなことはメッゲナイト絶対にない
 
 真剣な話を書けば、 エリシャがエリヤに執ようについて行った結果、エリシャはエリヤの霊の二つの分け前を得ることになったのである。つまり、二倍の祝福を与えられたのだった。イスラエルでは、長男や後継者は二倍の祝福を得るらしい。
 
 その日、エリヤとエリシャがなお進みながら話している時であった。なんと、火の戦車と火の馬が現れて、二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天に上って行った。
 エリシャは、エリヤが見えなくなるまで見送った後、エリヤの身から落ちた外套を広い上げるとヨルダン川の水を打った。エリシャがそうすると、水が両側に分かれたので、彼はヨルダン川を渡った。
 その光景を見ていた他の預言者たちは、「エリヤの霊がエリシャにとどまっている」と言った。こうして、エリシャはエリヤの後継者として自他ともに認められたのである。
 
 実はエリヤが昇天した姿は、たとえ地球が滅びても私たち人類を救うことが出来る救い主イエスを現している。イエスキリストは、エリヤのような姿で天に上げられ、また、再び来られる。
 
イエスキリストとは? イエスは、クリスマスにダビデの町の貧しい馬小屋の中で、ヨセフとマリヤ、羊飼い、東の博士たちという少人数の人に迎えられて生まれた。
 東の博士たちは、王なるイエス様に、黄金、乳香、没薬をささげたのである。この没薬は、死体に塗る習慣があり、イエス様の十字架の死を生まれた時から表していたのだった。
 イエスは、私たち人類の罪を負い、十字架で死ぬために生まれたたのだ。それはイエスを信じる者に、永遠の命を与える為だった。
 神の御子であるイエスが、それも私たち人類を救うために来られたことを、みんなに感謝され、大歓迎されて生まれたとは、とうていほど遠いような中で、イエスは生まれたのである。
 ヘロデ王に命を狙われながら生まれたばかりではなく、イエスは、私たち人類救う為に来たのに歓迎して迎えられなかった。
 
 しかし今度、主イエスが再びこの世に来られる時は、炎の中に力ある御使い達の軍勢を従えて、最高の主権者、王の王、主の主として来るのである。
 そのイエスキリストの御姿は、その目は燃える炎であり、御顔は太陽のように輝いて、栄光の王としての姿で来られる。
 そして、全世界のイエスキリストを信じる者たちの感嘆の的となるのである。
 
 そして、イエスキリストを信じる者は、救い主イエス・キリストの永遠の御国、すなわち天国に入る恵みを与えられるのである。 
 
 エリシャは、「神は救いである」の意味である。
 私たちはエリシャという人物を通して、たとえ天地が滅びても、私たち人類を救うことが出来る救い主を知るのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 





預言者ヨハネ

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預言者ヨハネ



 ヨハネは、イエスキリストと同時期に生まれた。マリヤが聖霊によってイエスを身ごもった時、ヨハネも母のエリザベスの胎内にいた。
 エリザベスは祭司アロンの子孫、夫は祭司ザカリヤであった。
 ザカリヤとエリザベス夫妻には子供がなく、エリザベスは不妊の女だった。
 ザカリヤが祭司職の当番の日の事だった。彼に主の使いが現れて「あなたの妻エリザベスは身ごもって男の子を産みます。その名をヨハネと名づけなさい。彼こそエリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主の前に用意するのです。」
…しかしヨハネは信じきれなかったので、主の使いの言った通りに口がきけなくなった。
 マリヤが、ヨハネの母の所に尋ねた時であった。母の胎内で子供が踊り喜び、母エリザベスは聖霊に満たされた。
 エリザベスが子を産んだ時、皆が父親の名にちなんでザカリヤと名付けようとしたが、エリザベスが名をヨハネと言った。父ザカリヤも書き板にヨハネと書いたのだった。周りの人々は彼の身内にも親戚にもヨハネという名がいなかったので不思議に思ったが、その時父ザカリヤは、口がきけるようになり、聖霊に満たされて主を賛美したのである。
 
救い主御降誕のしるし
 乙女が身ごもって男の子を産む。〈イザヤ7:14
 主の大いなる日が来る前に、エリヤの霊と力を持つ人物が主のために前ぶれをする。この人物がヨハネであった。〈マラキ書4:5.6
 ベツレヘム・エフラテで生まれる。〈ミカ書5:2
 この方はナザレ人と呼ばれる。〈イザヤ書11:1-2〉にある新芽、エッサイの根株から新芽が生えて、その上に主の霊がとどまる方であった。
 ダビデの家系であるイエスの父ヨセフとマリヤは、ヘロデ王の死後、ナザレの町に住んだ。それは、「この方はナザレ人と呼ばれる」と預言されていた事が成就するためであった。〈マタイ2:23
 星の導き、東の博士達をユダの地ベツレヘムで生まれた救い主イエスの所に導いた。〈ミカ5:2〉〈マタイ2:6
 ダビデの父エッサイの祖父ボアズと異邦人ルツは、主とイスラエルの民から「イスラエルの家を建てたラケルとレアのようにされるように」「あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。」「タマルがユダに産んだペレツの家のようになるように」という祝福を受けた家系だった。
 これは、イエスがユダ族として生まれる事。ボアズとルツの家系から生まれる事、すなわち、ダビデの家系から生まれる事。ダビデの出身地ベツレヘムから生まれる事。こうして救い主イエスが何処で何時生まれるか事細かに預言されていたのである。
 ヤコブの一つの星として生まれる。
 ヤコブはイスラエルの民、イスラエルの国を指している。
 救い主イエスは、旧約聖書に書かれてある預言どおりに来られた。また、旧約聖書や新約聖書、特に黙示録に預言されているとおりに再び来られる。
 救い主イエスは、旧約聖書イザヤ書53章などに書かれているとおりに、神の子羊として十字架の上でほふられ、すなわち民の贖いをしたのである。
 そして復活し、アブラハムやダビデに約束されたとおりに、世界中の人類に永遠の命をもたらしたのである。
 預言者ヨハネは、旧約聖書でメシアの先駆けとして必ず来る者として書かれている、『来たるべきエリヤ』であった。
 ヨハネは、預言者イザヤによっても、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
 ヨハネは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいから」と、ユダヤの荒野で宣べ伝えた。
 ヨハネは、ギリシャ語読みで、ヘブル語はヨーハーナーンで「主は恵み深い」の意味である。
【預言者ヨハネが目指した人物】〈マルコ1:6
“ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野密を食べていた。”
ヨハネは、エリヤを意識していたろう。だが、ヨハネが本当に目指したのはターザンじゃなかったと、どうしても言える?
何度も言うけど、そんなことはメッゲナイト!そんなことは絶対にないので話を戻そう。
 
 預言者ヨハネによって、イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時、聖霊が鳩のように降った。
“これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。”
 これが天と地を造られた父なる神からのイエスへの言葉であった。

平和の鳩



 イエスは、平和の君として、この世に来られた。鳩が平和のシンボルであるのは、ここから始まったのか?
 また、ヨハネは言った。「私は、この方の靴ひもを解く値うちもない。私は水によってバプテスマを授けているが、この方は火と聖霊によってバプテスマを授ける」
 ヨハネは、イエスが天国に入るための永遠の命と聖霊を注がれる方であることを預言していたのである。

預言者ヨハネの生涯最後



 ヨハネは、ヘロデの妻ヘロデヤ、姦淫関係の女の娘サロメによって首をはねられた。
 ヘロデの誕生祝いの日、ヘロデヤの娘サロメが皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。ヘロデは、その娘サロメに願うものは何でも必ずあげると約束した。
サロメは「バプテスマのヨハネの首を盆にのせて私に下さい。」と母にそそのかされて言った。
 その理由は、ヘロデとサロメの母ヘロデヤの関係が姦淫によって始まった時、ヨハネによって諭されたことをヘロデヤとその娘サロメが根に持ち、恨んでいたからだった。〈ルカ3:19.20〉〈マタイ14:1-12
“ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
 さて、領主ヘロデは、その兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてをヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つの悪事を加えた。”
 ヘロデヤは、ヘロデの兄弟のピリポの妻であったが、姦淫関係によって、ヘロデとヘロデヤは結ばれたわけである。
 
 預言者ヨハネは、こうして生涯を閉じたのである。
 しかし、この世界中にとって彼ヨハネが果たした役割は非常に大きい。ヨハネは、イエスが救い主であることを明らかに示したのである。

ホームページ紹介:最後のアダム・イエスキリスト

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English H・P
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