2013年6月19日水曜日

山をも動かす信仰

愛なるイエスキリストの勝利と御支配



(イエスは)道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かたが、葉のほかはは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしようが。」

 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことがてきるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。

 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」〈マタイ21:
 

山は大きな問題を指し、いちじくは身近な小さな問題を指しているとも言えます。

 私がクリスチャンになって間もない頃、山に向かって動いて海に入れと言えば何て大きな凄い信仰だろうと思いました。その頃、私自身にとって大きな問題がありました。だが、その問題は、動き出してなかなか海に入りそうには思えませんでした。信じることができなかったのです。

 私の家から見える風景に小さな山がありました。それを見て、この山が動いて海に入るという考え方自体が非現実的であると感じていました。

 それから20年弱経って今の私はこう考えています。

 私達が日々生活している日常の世界、サラリーマンなら朝、会社に行き、夜遅くまで残業して帰る。

主婦は、夫と子供を送り出し家計を助けようとパートで働き、帰りにスーパーで少しでも安い物を買おうと朝、新聞の広告で見た品物を買って帰る「今日は底値よ」 

子供は学校へ行き、小さいながらも人間関係に悩み、帰れば塾へ行く。

 これが普通に生きているクリスチャンもノンクリスチャンもしている生活である。そして昨日、そこにあった生駒山は今日もそこに有り、六甲山もやはりちゃんとその場合に存在している。それが普通である。

 たがもし、ある朝起きると生駒山が無くなっていたり、生駒山が六甲山の場所に有り、淡路島の隣りに六甲山があったとしたらどうだろう?人々はパニックに陥るだろうどっちが北でどっちが南?なんだか方向さえわからなくなりそうである。

 私達普通の人間にとって、昨日そこにあった山が今日もそこに有るから安心できる。それが神に造られた人間の普通の感覚であり常識である。
 

 では何故、イエス様は、この私達の普通の感覚に反するような、もしかして、こんな例えではよけいに信じにくいんちゃうか?というような絵で教えられたのか? 

 イエスキリストの十字架の死と復活、父なる神は、イエスを死人の中から蘇られせることができたお方であると信じたことが、私達の信仰の原点です。 

 それと同じ不可能を可能にする御力をもって私達を助けて下さる。それだけでなく勝利を与えて下さる。 
〈マタイ福音書6:10〉でイエス様は、

御国(Kingdom)が来ますように。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。” 


 これは、すなわち問題がある中に、私たちが苦しんでいる状況のただ中に、王なるイエスキリストの主権と御支配が現されて行くように祈りなさいと言うことです。

山に向かって動き出して海の中に入れと言ってもその通りになるの信仰とは、王なるイエスキリストの主権と御支配が現され、主の勝利が現されて行くことを祈りつつ 楽しみに待ち望むことです。

いちじくの木が…”〔大きな問題〕山が動き出すのは信じにくいが、では〔小さな問題〕いちじくの木が枯れる位なら簡単に信じることがてきるのだろうか?

 いちじくの木が枯れる、これは自然界ではよくあることである。では、身近な問題、(いちじくの実は食べれる)は、信じやすいかというとそうでもない。

〈ルカ18:1-〉にあるやもめ女の例えでは、イエスは、失望せずに常に祈るべきことを人々に教えられました。

 ひっきりなしに願い求めなさい。日夜叫び求めなさい

 父なる神は、少し耳が遠いのか?そうではない。

 なかなか祈りが聞かれないと、時に私たちは、こう思ってしまう。私のような人間には神は目を留めてくださらないのだろうか?

 神は、天と地を造られたほどの偉大な方、こんな小さな問題は後まわしにされるのでは?、そう考えてしまうと、あきらめや失望感がやって来てしまう。だが、そうではない。 やもめ女とは、小さい女で誰にも人に知られていない名声も権力もない小さな人間である。

 神は偉大な預言者エリヤを、今まさに死のうとしていたやもめ女と小さな子供に遣わされたお方でもある。神は、私たち一人一人をちゃんと気にかけてくださっていることは間違いない。

あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。〈マタイ10:30

 天の父なる神とは、私たちの髪の毛一本一本を毎日数えておられるほどに、私たち一人一人に関心を持ち、繊細な愛で、日々愛してくださっている方である。

 弟子たちの獄中からの賛美は、四方八方ふさがりの中で、彼らは主をほめたたえていた。彼らは状況ではなく、神ご自身がどのような方であるかに目を留めたのである。

 今、あなたに何かの問題が立ちはだかっていますか?

 主は、どんなに解決が不可能に見えるような大きな問題であっても、偉大な御手をその問題の上に伸ばしてくださり、イエス様の主権と御支配を現され、必ず解決し、あなたに勝利をとらせてくださいます。

 

  

2013年6月15日土曜日

イスラエルの一つのともしび


 

 ダビデの一つのともしび






  イズレエル人ナボテのぶどう畑は、主からの嗣業の地(先祖からのゆずりね地)であった。サマリヤの王アハブの宮殿のそばにあったナボテのぶどう畑を、野菜畑にする為に欲しがったアハブ王。イザベルは、イズレエル人ナボテに断られ不機嫌でいたアハブ王に、イスラエルの王の権力と、また偽証と殺害によって、イズレエル人ナボテの主からの嗣業の地を、取り上げるように策略をします。〈列王記21:1-16
1 このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。

2 アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」

3 ナボテはアハブに言った。「によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」・・・・・・


 その時、チィシュベ人エリヤにの主のことばがありました。 
列王記21:18-25
18 「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。

19 彼にこう言え。『はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』」

20 アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切っての目の前に悪を行ったので、私は見つけたのだ。

21 今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、

22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。

23 また、イゼベルについてもはこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』

24 アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」

25 アハブのように、裏切っての目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。


、すなわち、アハブ王、イザベル、アハブの家、ヤロブアムの家、アヒヤの子バシャの家に対しての預言のことばは、成就しました。主は、彼らに対する正義とイズレエル人ナボテの報復を見事に行われました。 

〔アハブ王に対して〕列王記22:30-38〉 
38 それから、戦車をサマリヤの池で洗った。すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。が語られたことばのとおりであった。

〔イザベルに対して〕〈Ⅱ列王記9:30-37
36 帰って来て、エフーにこのことを知らせた。すると、エフーは言った。「これは、がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬どもがイゼベルの肉を食らい、

37 イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。』」

〔アハブの家に対して〕21:21.22“”列王記9:7-10〉エリシャから言われた預言者のともがらのひとりが油を注いだエフーによって“”
 主は、ナボテの血の報復をされるために、彼らをイズレエル人ナボテの地に集められました。そして、〈列王記9章〉で、主がそのしもべティシュベ人エリヤによって語られたことばは成就しました。 
ヨラムのもとに行くことによってアハズヤが滅びたのは主から出たことであった。〈歴代誌22章、22:7


エリヤは、ユダの王ヨラムの偶像礼拝を責め審判を預言した。書簡、手紙による預言も有効である。歴代誌21:12から14
この書簡は、エリヤが天に上げられる前に弟子に託したものと思われます。それを開封し読んだ時、エリヤを通して主が語られた預言のことばが成就しました。歴代誌21:12-19


ユダの王ヨラムがエリヤの預言によってこの内臓の病にかかっていた、その彼を見舞いに行く為にイズレエル人ナボテの地にアハズヤはくださって行った。そこで二人は、主がアハブの家を滅ぼす為に油を注いだエフーに向かって行った。こうして、預言者エリシャによって油注がれたエフーによってアハブの家は裁きを行われ滅びたのです。

オムリ王朝は終わり、エフー王朝へ
バアル礼拝の蔓延していたオムリ王朝
エリヤとエリシャによって、主の裁きと勝利となりました。

ユダの王ヨラムは、アハブの娘が妻、彼は、王朝を手にすると彼の兄弟たちを剣にかけて殺した。しかし、主はダビデと結ばれた契約のゆえにひとつのともしびを与えられ続ける。アハズヤの母アタルヤは、自分の子アハズヤが死んだ時、ただちにユダの家に属する王の一族を皆殺しにしようとするが、王の娘エホシェバがヨアシユだけを盗み出し、隠し助けたことによって、ダビデの子孫であるユダ王の一族はひとつともしびを灯され続け、そして、王イエスキリストが生まれたのである。
 
メギドユダのアハズヤが死んだ地、〈黙示録16:15〉ヘブル語でハルマゲドン 

ハルマゲドンの戦い黙示録16:12-16

 大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられる。そういう運命。
 ゼブルン族とナフタリ族の地、イズレエル平原に地上の王たちが集められる頃、シェバの黄金や財宝が帰って来ると言える。 
イズレエルとは、ハルマゲドンの意味である。 
ハルマゲドン 
ハルはヘブル語で谷、山を意味する。マゲドンは、メギドの意味で古戦場、昔から戦いのあった場所である。誧
終末にはバビロン王が、杯を飲み干す〈〉と書かれている。
サタンの数字
 悪魔の数字は、666という。完全数7は一つで完全数であるのにに対して、666はどこまで行っても666…である。どうやら、どうやっても完全数7にはたどり着けないらしい。
 終末には、地上の王たちがハルマゲドンに集められ、サタンの王国が破壊される。
 イザベルが、イスラエルに持ち込んだバアル礼拝の背後にあ悪霊に支配されている王たち、全ての者達は、〈黙示録19:17-21〉で、主がイザベル達に報復されたように報復されます。
神への敵対勢力が終末論では、淫婦にたとえられている。
イザベルの魔術と姦淫とは、霊的不貞、霊的姦淫に心を寄せること。 偶像礼拝自体が霊的姦淫。 
イザベルの罪、霊的姦淫、呪術(魔術、占い)主の預言者たちを殺し、ナボテを殺し主のぶどう畑である嗣業の地を奪った。イスラエルは明らかに神の所有地ですから、イスラエルの民は、先祖から受け嗣いだ土地を売ることを禁止られていたのです。


世の終わりに、イエスキリストが再臨されそれゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、わたしの口のことばで(イエスキリストによって)彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。〈ホセア6:5

イザヤ42章3節


イエスキリストは、私たち全ての者の罪を背負って、十字架につかれました。だから、悔い改める者は赦されます。

 これは、誰もが知っている有名な話のようで、映画やテレビの中でもざんけのシーン等で出できます。

 それでは、イエスキリストは、罪を犯した者を、悔い改めてあたりまえ、上から下に見下し、心などわかってもらえない方なのでしょうか?

 映画やテレビなどによって、間違ったイメージが私たちの中にあるかもしれません。

 

 イザヤ書42章3節では、

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

と書かれてあり、イエス様ほど、傷つき痛んでいる心を理解し、助け、又、救いを求めて来られた人々を、優しく迎えられる方は他におられません。

 イエス様は、良き相談相手であり、カウンセラーのようなお方です。

 わずかに残った希望という光を、もう一度傷つけ、消してしまうような無神経なことは決してなされず、むしろ、悩み苦しむ心を慰め癒やし、励ましを与えられる方なのです。 


 人に相談し理解してもらえず、むしろ傷つくような事もありますが、私たちを造られた創造者であるイエスキリストは、井戸のそばでイエス様に出会ったサマリヤの女の時のように、私たちが通って来た人生や、何が心に暗い陰をもたらしているのかを、よく理解してくださり、そこで受け入れてくださり、心に完全な光という希望と新しい命で満たしてくださるお方です。

 イエス様は、神であられるのに人となって私たちの間に住まわれ、私たちを救う為に十字架につかれ、しもべとしての人生を送って死んでくださいました。

わたしは目の見えない者に、

 彼らの知らない道を歩ませ、  

 彼らの知らない通り道を行かせる。

 彼らの前でやみを光に、

 でこぼこの地を平らにする。

 これらのことをわたしがして、

 彼らを見捨てない。〈イザヤ42:16

 へりくだった心のイエス様は、〈イザヤ42:16〉にあるように、暗く混乱している心に、新しい解決の道を与え、やみを光に変え、優しく導いて、新しい命を与え、輝いた人生を歩むことができるようにしてくださいます。

 イエス様だけが、悩み傷つき希望さえも無くなってしまいそうな心の死と暗闇からも解放し、喜びと愛と復活の命で満たし、もう一度、新しい人生を歩ませてくださるお方なのです。 

2013年6月14日金曜日

真に自由に生きる道



真に自由に生きる道





真理はあなたがたを自由にします。〈ヨハネ8:32 

 私たち人類の歴史を振り返ると、暴君による支配、権力主義的な政治により、厳しい税金の要求によって貧困という問題が起こる中、自由が叫ばれました。

 しかし、現代は、行き過ぎた自由、神に反した偽りの自由により、例えば不倫という性の自由により夫婦関係、家庭の崩壊をまねきました。これが、本当に自由な生き方なのでしょうか? 

 聖書は、イエスキリストこそが、道であり、真理であり、命であると言っています。イエスキリストこそが、真の自由の源なのです。

 私たちは、聖書の中にある真理、すなわち生ける神の御ことばであるイエスキリストにこそ、真の自由が見いだされ、自由と喜びの中に生きることができるのです。 
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。〈ローマ7:20 

 罪は、本当には欲してないことを私たちにさせてしまうのです。私たちは、その中において不安、恐れ、空しさを感じ、時には自分自身の価値を喪失し、生きる意味さえ見失ってしまうこともあります。 

 聖書の御ことばは、私たちが真に自由に生きるための、神のラブレターなのです。 

 私たちが、神と神の御ことばを無視し、自分の罪や肉の要求に従って歩んでしまうと、自分は自由気ままに生きていると思っていても、意外に罪の奴隷として、罪の支配に身を委ねて生きてしまっています。 

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物(贈り物)は、私たちの主イエスキリストにある永遠のいのちです。〈ローマ6:23 

 私たちは、高価で尊く、神と人とに愛される者として造られました。神は、私たちひとりひとりを、神のイメージに似せて造られました。

 私たちは、神の家族として造られ、天と地を創造された真の神を礼拝するために造られました。

   人間で手によって造られた偶像を礼拝する事は、私たちの価値を低落させてしまいます。人間の手で造ることがてきる物が、人間以上の価値があるはずがありません。 私たちを神の似姿に造られるほどに愛してくださった、生ける神を礼拝する時に、私たちはイエスキリストによって、真の自由と栄光ある姿に変えられて行くのです。

“  しかし、人が主に向くのなら、そのおおいは取り除かれるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光やら   栄光へとして主と同じかたちに姿を変えられ行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。コリント3:16-18  

自由への救いの道


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。〈ヨハネ3:16 

 神は、私たち人類への救いの道を備えてくださいました。  

それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエスキリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。〈ローマ5:21

 罪の支配は、死をもたらし、恵みの支配は、命の支配をもたらします。

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。〈ローマ8:2

 神の愛である、イエスキリストの恵みと義は、私たちに新しい命を得させ、罪の奴隷から解放します。 

 唯一まことの神であるイエスキリストを信じ礼拝して行くことが、罪の奴隷からの解放と真の自由をもたらします。そして、栄光の人生を生きることがてきるのです。

 そういう意味で、イエスキリストの十字架の死と復活は、私たちが生きる上で、また生活していく中で密着した意義があります。 

 あなたも今、イエスキリストを信じ、真の自由のある解放された喜びと栄光の人生をつかんでみませんか? 

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。〈ガラテヤ5:1






2013年6月13日木曜日

情け深く、憐み深く、恵み豊かな神


ヨエル書2章




あなたがたの着物ではなく、

 あなたがたの心を引き裂け。

 あなたがたの神、主に立ち返れ。

 主は情け深く、あわれみ深く、

 怒るのにおそく、恵み豊かで、

 わざわいを思い直してくださるからだ。〈ヨエル2:13 

 私たちが、生きていれば必ず問題が起こります。 人間関係の問題、システム・制度の等の問題、政治的・経済的な問題が起こります。

 何が悪いか?原因はどこにあるのか?と思い悩むことがあります。

 黙示録では、いなごの襲来は反キリストを指しています。誰がいなごか、何がいなごか?を考えます。収穫を妨げやがって… 

 しかし、本当の原因は案外、自分の心の中でいなごを飼っていることにある。おまけに産卵させ、増殖までさせているかもしれない。今や大軍 

 そのような問題が起こった時、主が今、自分に何を示されたいのか、主に聞くことが大切です。主の元を尋ね、問題の本当の原因を聞くことが大切です。 私たちは、主に従って日々生活を送っているか、御言葉を思い行っているか?

 いなごとは、自分の中にある、まだ主に従いきれていない神への反抗的な心、不信仰、不従順な心を指すのかもしれない聖霊によって主に示してもらおう! 

 そのような罪がある時、主は時々いなごを送られる?。

 主が望んでおられるのは、問題を正当化することではなく、私たちの心が真の悔い改めに導かれ、主に立ち返り、再び新たに、より深い主イエスとの関係が築かれて行くことである。

いなご、ばった、食い荒らすいなご、

 かみつくいなご、

 わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を わたしがあなたがたに償おう。

 あなたがたは飽きるほど食べて満足し、

 あなたがたに不思議なことをしてくださった

 あなたがたの神、主の名をほめたたえよう。〈ヨエル2:25.26
 主は、私たちが罪を犯したがゆえに受けられなかった収穫でさえ、主御自身が償うと言ってくださる、情け深く、あわれみ深く、恵み豊かなお方です。 

2013年6月10日月曜日

いつくしみのことばの成就


いつくしみのことばの成就



見よ。その日が来る主の御告げその日、わたしは、イスラエルとユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。〈エレミヤ33:14

 Ⅰ.幸いな約束が果たされる


 彼らを国に帰らせ、建て直し、植えつけ、イエスキリストが主であることを知る心が与えられます。

“わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、帰らを建て直し、倒れないように植えて、もう抜かない。
 また、わたし彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。”〈エレミヤ24:67

 イエスキリストが、主であることを知る心が与えられます。

 永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神があるあなたと、あなたの遣わされたイエスキリストとを知ることです。〈ヨハネ17:1-3

 世界中に離散しているヤコブの子孫、ユダヤ人イスラエルの民の贖い、並びに世界中の人々の贖いをも現していると思います。黙示録の14万4千の救いを指す? 

〔今日的意味として考えられること〕


主の復讐・主の宮のための復讐.バビロンの荒廃〈エレミヤ51章〉
“70年の終わりに、わたしは、バビロンの王とその民主の御告げまた、カルデヤ人の地を彼ら
の咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。
  わたしは、この国について語った全てのことば、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この
書にしるされている事をみな、この地にもたらす。〈エレミヤ25:12.13〉
エレミヤ51章より
 主が、バビロンを滅ぼす時(主の復讐・主の宮の復讐の時)、また、祝福の雨の時でもあります。
自分の手で造り罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々が退けられる時となります。
 バビロンへの主の怒りのぶどう酒が飲まされる。〈イザヤ4:2-5〉〈イザヤ51:22.23〉 地上の全ての  王国(サタンの王国)に飲まされる。彼らのあとでバビロン王が飲む〈エレミヤ25:15-26

主は、高い所から叫び、その聖なる御住まいから、声をあげられる。

その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、

地の全住民に向かって叫び声をあげられる。

その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。

主が諸国の民と争い、すべての者をさはき、悪者どもを剣に渡されるからだ。…”〈エレミヤ25:30-33〉




.幸福にするためのとこしえの契約を結ばれる
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らの一つの心と一つの道を与え
 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。〈エレミヤ33:39.40
 永遠の契約である新しい契約が結ばれます。
〈ヘブル8.9.10章〉に書かれている、イエスキリストの十字架の血による新しい平和の契約が結ばれるという御言葉の約束が成就します。

〔一つの心〕
1.イエスが主であることを知る心
2.主と全く一つである心
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。歴代誌16:9
3.主イエスに従う心
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へペテロ1:2
4.新しい心と新しい霊が与えられます。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。〈エゼキエル36:26
〔一つの道〕
1.イエスキリストが道、ただ一つの救いの道わたしが道であり、真理であり、命なのです。〈ヨハネ14:6
2.新しい生ける道
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることがてきるのです。イエスは御自分の肉体という垂れ幕を通して私たちのために、この新しい生ける道を設けてくださったのです。〈ヘブル10:19.20 
.全ての幸福が与えられます〈エレミヤ33:9
 主が、彼らに大きなわざわいをもたらされたように、主が彼らに語っておられる全ての幸福(祝福・平安・繁栄)が与えられます。この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。〈エレミヤ33:9
 主は、エルサレムの町もユダヤ人イスラエルの民もいやして建て直され、ユダヤ人イスラエルに平安と真実を豊かに示されます。〈参照エレミヤ33章〉
 主がシオンに帰られ、エルサレムのただ中に住まわれます。
 エルサレムは、真実な町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれます。
 人間の種と家畜の種、また平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出します。〈参照ゼカリヤ8章〉




.祝福の雨

 主が、ユダヤ人イスラエルとイエスの十字架の血による平和の契約を結ばれ、シオンの丘に祝福を与え、祝福の雨を降らされます。わたしが彼らと平和の契約を結びわたしが彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。〈エゼキエル34:26

〔詩篇29章の上空の大洋〕

主の声は、水の上にあり、

 栄光の神は雷鳴を響かせる。

 主は大水の上にいます。

 主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。

 主の声は火の炎をひらめかせる。

主の声は荒野をゆすぶり、主はカデシユの荒野をゆすぶられる。

〔大水の上〕ヘブル語でシャーマイム.複数で水の場所「上空の大洋」の意味です。

 最高の天が、神の御住まいシャーマイムです。

〔カデシユと荒野〕さばきの泉と呼ばれていました。

主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。

 主は地の果てから雲を上らせ、

 雨のためいなずまを造り、

 その倉から風を出される。〈エレミヤ10:1351:16

 この御言葉と同じ御言葉が聖書に3ヶ所書かれています。

〈詩篇135:7主は地の果てから、雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。
 ヤコブ(イスラエル)に対する祝福の雨です。

.ダビデの若枝

 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ふ。これは、ボアズとルツの間にオべデが生まれ、オべデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれました。
 ダビデは、ボアズとルツへの主とイスラエルの民の祝福を受けついだ家系に生まれました。〈ルツ記4:11.12
 そして、その祝福を最終的に受け継がれたのが、イエスキリストです。

 ダビデの子孫として生まれられた王なるイエスキリストは、買い戻す権利のある贖い主として、ヤコブの子孫・ユダヤ人イスラエルの民を贖われます。
わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。〈黙示録22:16
 ユダ族から出た獅子ダビデの根であるイエスキリストは、ほふられた子羊として、十字架でサタンに勝利をとられました。
 
昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。〈ミカ7:20
.



2013年6月9日日曜日

黄金律・イザヤ書よりⅢ



黄金律・イザヤ書よりⅢ




 イエスキリストは、最も暗闇が深いとも思えるような、ゼブルンとナフタリとの境にある湖のほとりの町から、宣教を開始して「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われました。
 ヒゼキヤ王の時代に、神の御言葉を拒み、主に敵対し、あざけった彼らの地にイエスは来てくださったのです。 それは、イエスキリストが、どのような罪人をも救われることを現しておられるのではないのでしょうか。
  死の地と死の陰にすわっていた私たち全ての者に、イエスキリストは光を現わされました。
そして、神のことばであるイエスは、彼らの中に住まわれたのです。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。〈ヨハネ1:14
  ここに、イエスキリストの罪人に対する愛が現れています。
 イザヤが、主から預かった主要なメッセージは、イザヤ書53章のキリストの受難です。
 神のひとり子イエスは、神である立場を捨てて、へりくだられて苦難のしもべとして私たち人類に仕えるために、人となってこの世に来られました。
 それは、十字架の死という苦難の道をイエスキリストが通られて、私たち人類に永遠のいのちへの道を新たに開かれるためでした。
 この主イエスキリストに信頼し、目を離さない時、私たちは黄金律を実践していけるのだと思います。
まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちの咎を
 彼に負わせた。〈イザヤ53:4-6 


2013年6月8日土曜日

黄金律・イザヤ書よりⅡ


 黄金律・イザヤ書よりⅡ




 その後でイザヤは、これがイザヤ書に流れる重要なメッセージであると言われている事を伝えています。 

 それをイエス御自身が、〈ヨハネ12:40〉で語っておられます。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、それはわたしが彼らをいやすことのないためである。」” 

 心で理解せず、回心せずとありますが、その当時のイスラエルの民に、主はこう言われています。

そこで主は仰せられた。

「この民は口先で近づき、

くちびるでわたしをあがめるが、

その心はわたしから遠く離れている。

彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。〈イザヤ29:13


 黄金律に、律法という言葉もありますが、イエスは律法についてこう言われています。そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身の自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」〈マタイ22:373-9  
 イスラエルの人々は、最も大切な神と人との関係、人と人との関係において必要な愛し合う心を忘れていました。
 神の愛を離れ、神に背を向けた人間の状態でした。
 イザヤ書の中に書かれてあるヒゼキヤ王が、主の目に正しい事を行いモーセの律法を守る為に出したそのおふれ結果が、〈歴代誌30:10〉です。
こうして、近衛兵は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを物笑いにし、あざけった。です。 彼らは、近衛兵ではなく、神を物笑いにし、あざけったのです。
 イザヤ書に書かれているの〈9:1.2〉はこれと同じ地です。
しかし、苦しみのあった時に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
 死の陰の地に住んでいた者たちの上に
 光が照った。

黄金律・イザヤ書より




イザヤの召命と預言者の働き



 『黄金律とは?』


何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。〈マタイ7:12 


【預言者とは?】

神の言葉を預かる者です。

神と民との真実な関係を打ち立てる事を教えます。

預言者は、未来を語る任務を持っています。 

 その中で最も重要なのが、救い主イエスキリストついての預言です。 


【預言とは?】

1.神は、聖なる方、義なる方であり、悪を裁き罪を罰せられる方である事を伝えます。

2.それと共に、神の救いの御計画・希望、神は愛であることを伝えます。


 預言者イザヤは、神の裁きと、メシヤによる救いを伝える為に、このような体験をしています。


彼(セラフィムのひとり)は、私の口に触れて言った。

「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去さられ、あなたの罪も贖われた。」〈イザヤ6:7


 イザヤ自身、主の恵みと憐れみにすがるしかない罪人であることを、主によって知らなけばなりませんでした。

 イエスキリストは、〈マタイ7:1.2〉でこう言われています。

さばいてはいけません。さばかれないためです。

 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。” 


 預言者としての務めを果たす者は、裁く事は神の領域であり、人間は、人を裁き罪に定められる存在ではなく、自分自身、もし、イエスキリストの十字架を信じる信仰によって救われていなければ、滅んでいた罪人であることを忘れてはならないし、神が裁かれるのは、あくまでも悔い改めに導くためであり、その動機が愛であるということを忘れてはならないのです。 


2013年6月1日土曜日

イスラエルは主のぶどう畑Ⅱ

  ヤコブの勝利





 主の割り当て分は、ご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地です。主が、ヤコブ(イスラエル)に勝利をもたらす決め手となるのが、主の右の手永遠の御腕御顔の光だと思われます。




彼らは、自分の剣によって地を得たのではなく、

 
自分の腕が彼らを救ったのではありません。         


ただあなたの右の手あなたの腕あなたの御顔の光が、そうしたのです。

あなたが彼らを愛されたからです。

神よ。あなたこそ私の王です。ヤコブの勝利を命じてください。〈詩篇44:3.4
 
                                          abcdz2000



主の右の手

王の詩篇〈詩篇45:4あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。

あなたの矢は鋭い。

国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。

王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ。

 王は花婿なるイエスキリスト、王妃は妻である黄金のエルサレムをさしています。

 妻は、新しいひとりの人であるキリストを頭としたそのからだです。キリストは、ユダヤ人と異邦人を共にひとつからだとして神と和解させる為にも十字架にかかられたからです。

 花嫁は異邦人の完成(栄光の教会)を指し、妻はイスラエルの残り者がイエスにあって復活し、花嫁なる異邦人と共にひとつからだとして造り上げられる者です。

彼の手を海の上に、彼の右の手を川の上に置こう。〈詩篇89:23-29

 アブラハムの子孫・ダビデの子孫であるイエスキリストは、その長子としての権威によって、この終末の時代にイスラエル民族のために、偉大な奇跡をすでに起こされ続けられています。

〈イザヤ11:15.16〉にはこう書かれています。

主はエジプトの海の入江をひあがらせ、また、その焼けつく風の中に

御手を川に向かって振り動かし、

それを打って、七つの水無し川とし、

くつばきのままであるけるようにする。

残される御民の残りの者のために

アッシリヤからの大路が備えられる。

イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。

 主は、イスラエルの残り者すなわち、主に贖われた者たちを、シオンに帰らせられると約束されています。
 
主の御腕

 終わりの時、主の御腕の力によって、蛇レビヤタンを罰し海にいる竜を刺し殺されます。〈イザヤ27:1参照〉 昔、エジプトからイスラエルの民全体を脱出させるために、主がラハブも竜も刺し通され、紅海の乾いた道をイスラエルに歩まされたように、偉大な全能の主の御腕の力によって、悪魔と死の力からの解放という奇跡を起こされるのです。

さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。

さめよ。昔の日、いにしえの代のように。

ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。

海と大いなる淵の水を干上がらせ、

海の底に道を道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、

あなたではないか。〈イザヤ51:9.10

 
聖なる御腕

聞け。あなたの見張り人たちが、

声を張り上げ、共に喜び歌っている。

彼らは、主がシオンに帰られるのを、

まのあたりに見るからだ。

エルサレムの廃墟よ。

共に大声をあげて喜び歌え。

主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。

主がすべての国々の目の前に、

聖なる御腕を現した。

地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。〈イザヤ52:8-10

 
永遠の腕

エシュルンよ(理想的イスラエルの詩的呼称)。

神に並ぶ者はほかにはない。

神はあなたを助けるために天に乗り、

威光のうちに雲に乗られる。

昔よりの神は、住む家。

永遠の腕が下に。〈申命記33:26.27

 
御顔の光

 御顔の光は、主の恵みと平安(平和)が与えられることを現しています。

〈民数記6:24-26〉の祝祷

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」

 アダムとイブが罪を犯したので私たち人間が、もう一度主の御顔を仰ぎ見るには、イエスキリストの十字架による救いが必要です。 天と地を創造された神は、イエスの十字架の血による贖いによって、私たちをキリストの御顔にある神の栄光を知る知識に輝かせてくださったのです。
「光が、やみの中から輝きでよ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。コリント4:6
 永遠のいのちとは、私たち人類が唯一のまことの神と、神の遣わされたイエス・キリストを知ることです。
 主は、御言葉と御自分の風によって、イスラエルの地境に平和を置き、イエスキリストの十字架の血による新しい契約をイスラエルの民全体と結ばれ、イスラエルの国は完全に復活します。
 
主は、あなたの地境に平和を置き、最良の小麦であなたを満たされる。
 主は命令を送られる。そのことばはすみやかに走る。
 主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。
 主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐えようか。
 主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせられると、水は流れる。〈詩篇147:14-18
 時が来て、ユダヤ人が、主イエスキリストの十字架を仰ぎ見る時、イスラエルの国に、主の平和と主の勝利が、完全に実現します。