2014年12月21日日曜日

真実な愛の心☆イエスの生涯よりⅡ


私の晩餐にあずかる者



2014年9月7日礼拝メッセージより 聖書箇所:ルカ福音書14章15~24節

先週の続きの箇所なので、おさらいします。
状況は食事会。どういう人が、どういう人を招いている食事会でしたか?
ユダヤ教のパリサイ派のある指導者が、自分の家に、律法の専門家であるユダヤ教の宗教指導者たちを招いての食事会。
社会的な地位や名誉を持った人が、社会的な地位や名誉を持った人たちだけを招いての食事会でっした。そこにイエス様も招かれていたわけです。

なぜかその中に、お呼びでない人、招かざる客が一人いた。それは水腫という病をわずらった人でした。
当時、水腫という病気は、神に呪われた証拠でした。律法の専門家たちからは、水腫は、不品行の罰である、性病の一種と呼んでいた。その、神に呪われていると、レッテルを貼られた、水腫を患った患者が、自称エリート集団の食事の席にいる。なんで?そして、彼の真正面には、イエス様がおられた。

皆は、イエスをじっと、見つめていた。その日は安息日で、仕事をしてはいけない日。パリサイ派の指導者達は律法を勝手に解釈し、病人を癒すことも仕事になると思っていました。
イエスは、どうなさるのか?興味津々。イエスがこの病人を癒したら、律法違反で訴えてやろうとパリサイ人達は思っていたかもしれない。これが、事の発端でした。

イエス様は、彼らの心の動機が分かったので、質問された。
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
彼らは、今まで考えたことのない、とっさの質問に答えられなかった。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。
イエス様、は規則よりも命を大切にされたわけです。

14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
彼らは、痛いところを、イエス様から、ズバッと、突かれた訳ですね。
彼らは、これに対して返す言葉がなかった。きっとその場は、重苦しい空気になったでしょう。

また、その食事に招かれた人たちは、我先に上座に座ろうとしていた。それを見てイエス様は、招かれた人は、自ら上座に座ってはいけない。末席に座りなさい。また彼らはイエス様から、耳の痛いことを言われた。

さらにイエス様は、招く側の人に対しても、
祝宴を催すばあいには、お金持ちなどを招くのではなく、むしろ、貧しい人、身体の不自由な人、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです・・・と言われた。

特定クラスの人たちばかりを招いて、交際するのはエゴではかいか・・・。
イエス様からケチョンケチョンに言われ、楽しいはずの食事会が、イエス様のせいで台無しに。重苦しい空気になった。その時、
イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言った。〈ルカ14:15〉
突然一人の人が、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」、と発言したのです。

最近KYって言葉が流行っていましたよね。場の空気を読めない人のこと。重苦しい空気が漂っている時、混乱状態に陥った時、とっさに、訳の分からない言葉を口にしてしまうことってありますよね。聖書の中では、思い当たる箇所ありますか?ペテロがまさにKYだったことがある?

イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、3人が語り合っていた。あとの二人は、モーセとエリヤである。二人も、栄光に包まれていた。モーセとエリヤがイエス様から離れようとした時、
ペトロが言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。とっさに、その場の空気を変えようとペテロはそんな言葉を口にしたのかもしれません。

今日のところでも、そういう感じだったかもしれません。重苦しい雰囲気の食事会になってしまっていた。
とっさに、一人の人がイエス様に、先生「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言ったわけです。
でも、そう言った本人も、きっと、自分で何を言っているのか、分かっていなかったのではないか。
でも、その内容は「神の国で食事する人は、幸いである。」でした。その通りです。

神の国。これは聖書で度々出てくる言葉でとても大切です。
イエス様が弟子たちに教えた祈りの中に「神の国が来ますように」と祈りなさいとあります。
天地を創造された神の願いは、ご自身の国が、この地に広がりこの地に浸透していくこと。
では、その、神の国とは、どんな国をイメージしますか?けっこうバラバラかもしれないですね。

話変わりますが、先々週の土曜日、あるビーチでバプテスマ式がありました。
そのビーチへの道は、旧道の161号線をまっすぐ、北に行けば良い。川を渡って、そこを右に曲がれば、すぐ。しかし、場所がよく分からなかったので教会員のご婦人に聞いた。
「その交差点の目印は?」
そのご婦人は「左手に黄色の家がある。そこを右に曲がれば、和邇浜ビーチに着きます。」と教えてくれた。
(私の頭の中は)左手に黄色の家。ところが行っても、行っても、無いのです。
見落とした。行き過ぎたなあ、と思って、ある教会員の方に電話した。行き過ぎたみたい。
『161の国道まで、出てますので、戻ってきてください。』戻ったら、その方が曲がる交差点まで出て来てくれてたので、事なきを得た。

バプテスマ式が無事終わって、帰る時に、私が見落とした黄色の家って、どの家だったのかと見てみた。
あ~そ。これが黄色の家???あのご婦人は、これが黄色の家。私には、どう見ても、ベージュ。
ある言葉を聞いても、イメージや中身が、そんな風に人によって、バラバラではないでしょうか?。

神の国が来ますように、と祈っていても、神の国のイメージは人によって、ばらばらかもしれない。
神の国(英語ではKINGDOM)って?王様であるイエス様がいて、その方の支配が及ぶ領域、主がご支配くださる領域です。それが神の国。
そこでは、神様のご性質が余すところなく表される。
神は愛なので、愛に関わる出来事が、起こされて行く。
そこでは、喜び、赦し、思いやり、励まし、慰め、癒しなどが、平和、和解、回復が起こされている。

聖書の中でパウロは言いました。神の国とは、義と平和と聖霊による喜び、そして力であると。そんなパウロは「私は神との平和を得ました。」と言っています。

神の国の王様であるイエス様は、まず、どこに、神の国を表わしたいと願っておられるのでしょうか?
それは、私たち、一人ひとりの心の中に、神の国が来ることです。
私の心の中に神の国が来ますように。イエス様、私をご支配してください。あなたの心で、私の心を満たしてください。赦す心、弱い者を思いやる心、あなたの知恵、これらで、満たしてください。と祈りましょう。

また、”神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。”〈ルカ17:21〉
特定の場所というよりも、関係の中に神の国が表される。
家族の中に、友人との中に、職場の人間関係の中に、学校の中に、地域の中に、国と国との中に。御国の王イエス様を歓迎した時、赦し、思いやり、励まし、慰め、癒しなどが、平和、和解、が訪れます。ですから神の国が訪れますようにと祈りましょう。


今日の聖書箇所に戻ります。
楽しいはずの食事会が、重い空気になってしまった。とっさに、ある人の口から出たのは、
「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」
その発言を受けてイエス様は、どうされたか?イエス様は、その場にいた社会的な地位や名誉を持った人たちだけの祝宴の場で、彼らに向かって、神の国における大宴会について、喩えをもって話された。

14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。
14:18 ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

当時、人々を祝宴に招く時、2回、招待状を出していました。
何ヶ月前に、一回目の招待状を出します。受け取ったら、行かせていただきますと、返事します。
直前に、2度目。用意が整いました、どうぞ、お越し下さい。と招きます。2度目の招待の後に、ドタキャンする人は、招いてくれた人に対して、大変失礼な態度なわけです。招いてくれた人に対し、宣戦布告するようなものです。招いた人から見ると、
「俺に喧嘩売っとんのか!そんな、失礼な態度。」そう思われるにも関わらず、皆、同じように断りました。

祝宴を断る理由は?

『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。』
『結婚したので、行くことができません。』
3つの断る理由ですが、招かれた祝宴の日に、どうしても優先しなければならない用事ではない。

わざわざ、この祝宴に招かれた日に、ぶつけなくても良いじゃないですか。この日を外して、別の日に、畑見に行ったら良い。別の日に、牛を試しに行ったら良い。別の日に、結婚式の日取りを決めたら良い。これらは、行きたくないことの口実ですよね。
(行きたいけと、行けない時は、こういう理由で行くことができません。正直に言える。
行きたくない時、バレバレの、口実を作る。)

この喩えがユニークなのは、ここから。盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた、主人の言動です。
14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した(皆、同じように断りました)。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』
14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

私たちも、人を招いて、食事会を開くことがある。ドタキャンされることもある。
招待客から、断られたからといって、この主人のようにはしない。

この神の国の例え話を、宗教指導者、律法の専門家たちは、イエス様から直接聞いている。話の内容は理解できたと思う。でも、彼らは、イエス様が何を言いたいのか、分からなかったと思う。
でもそれは、当時の、宗教指導者、律法の専門家たちだけでないと思う。
規則と伝統と組織を守ることに熱心な人たち。
自分は、誰よりも熱心に神に仕えていると、疑わない人たち。
イエス様に従って行こうなんて、考えたことがない人たち。
特に、そういう人達には、イエスの神の国の譬え話は、理解不能かもしれません。

イエス様は最後に、
「『よく言っておきますが、招待されていた人たちの中で、私の晩餐にあずかることのできる人は一人もおりません。』神の国で食事をすることは、確かに幸いなことですが、はたしてその幸いに入れる人は、だれなのでしょうか。」現代訳

聞いている人たちは、ショックです。自分たちこそ、神の国の晩餐に預かることができると信じている人たちだったから。
でも、イエス様から問われたことは、『神の国で食事をすることは、確かに幸いなことですが、はたしてその幸いに入れる人は、だれなのでしょうか。』
先ほどの例え話で、宴会に招待されていたのに、直前で断り、ドタキャンして、失礼な態度に出た人たちって、ひょっとして、自分たちのことを言われているのかなあ?ようやく気づいてたのではないでしょうか?。

イエスの晩餐(食事会)

イエス様が彼らに言いたかったのは、
あなたがたは、規則や制度を優先し、貧しい人、弱い立場の人を切り捨てている。その一方で、自分は神に招かれている。自分は神の国で食事ができる、自分は救われている、自分は大丈夫と、たかをくくっているのではありませんか?本当に大丈夫ですかと。

でも、私の晩餐は、そうではありません。ただ、私の誘いを喜んでくれて、私の晩餐に喜んできてくれる者たちと、私は、一緒に、食事をしたい。そして私は、彼らが、仲良く楽しく食事をしている姿を見たい。だから、そういう人たちを探してきなさい。
『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

では。、イエスの晩餐にあずかることができる者の条件とは何でしょう?
イエス様の招きを喜び、感謝し、イエス様の晩餐に喜んであずかりたいと願う者なら誰でもOKなのです

大切なのは、イエス様に対する、感謝の心、感謝の気持ちです。
ですから、イエス様、この私をも、招いてくださり、感謝します。
私は、イエス様の晩餐に喜んであずかりたいです。
イエス様、私のために、尊い命を捨ててまで、私を愛して下さり感謝します。私は、イエス様が命じられた教えを守り、従います。また、人にも、守るように教えて行きます。そういう心が大切なのです。


その心が起こされた方は、ぜひ、キリスト教会に足をお運びくだるよう切に願います。





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