2014年12月21日日曜日

真実な愛の心☆イエスの生涯よりⅢ



「神さまの大きな喜び」


2014年9月21日礼拝メッセージより 聖書箇所ルカ福音書15章1~7節


聖書は色々な読み方ができますが、イエス様は、どういう状況で、誰に、何を語られたか?その視点で聖書を読むことが大切だと思います。

今日も先週の続きの箇所ですが、聖書箇所はルカ15章で、大変有名な箇所です。
今日はここから、イエス様は、どういう状況で、誰に、何を語られたか?何をしに来られたか?もう一度、学びたいと思います。

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
15:2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人(イエス)は、罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。〈ルカ15:1. 2〉

取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして、イエス様のところに近寄ってきた。
イエス様は、彼らを受け入れて、食事をしていたようです。それを見た、ユダヤの宗教指導者たちは、このイエスは、罪人たちを迎えて、食事まで、一緒にしているではないか、とつぶやいた。どういうこっちゃ、といいがかりをつけていた。



当時、どういう人が『罪人』と断定されていたのでしょうか?
それは犯罪を犯した、犯罪人を指すのではない。
次のような3種類の人たちです。

取税人=ユダヤ人でありながら、ユダヤ人から税金を取立て、ローマに収める職業に就いている人。自分たちを支配しているローマ人の手先となって働く人たち。
盲人、らい病人、水腫を患った人=ユダヤ人なのに、宗教的に汚れている人たち。神に呪われている人として、扱われる病気。
異邦人=ユダヤ人以外のすべての民族。





罪人とレッテルを貼られた人たちの苦しみには、3重の苦しみが伴います。

   病、障害、そのものによる生活上の困難さ 
目が不自由だったり、人に感染する病、その他どんな病気でも肉体的な障害、精神障害、知的障害でも、生きづらさ、生活上の不自由さがある。本人やその家族でないと、その苦しみや痛みが分からないような苦しみがある。

   宗教的な偏見、差別、排除
これも苦しい。宗教的な偏見、差別、排除。これらはどのようにして生まれるのでしょうか?

例えば、旧約聖書の申命記では、イスラエルの民と神様が、荒野で契約を結びました。

神に従えば、祝福される。⇒その状態(結果)は、繁栄。
神に逆らえば、呪われる。⇒その状態(結果)は、貧困、特定疾患。

もちろん、神様はご自分の民を祝福したいのです。
でも、解釈する人間の側では、どう受け取ってしまうのでしょうか?
二元論では、祝福か呪いか。繁栄か貧困か。どっちかで中間はありません。二者択一のどっちかです。
もう一つは因果応報という考え方で、原因があり、結果がある。
親の因果が子に報い、やってならない神への姿勢が原因となり、現在の結果を招くという考え方です。
現在、こういう結果になっているのは、神に対する態度が、ああだったから。
現在、金持ちで、健康なのは、神に祝福されている証拠。
現在、貧乏で、不治の病で苦しんでいるのは、神に呪われている証拠。

この考え方は判りやすく、人間の思考にぴったりはまる。でも、恐ろしいと思いませんか?
なぜなら、今日お金持ちで、健康だから、神に祝福されている。でも、お金がなくなり、この病気にかかったら、神に呪われているというレッテルを、社会から貼られてしまう。

実例はヨハネ9章にもあります。病と罪を直結させる考え方です。
こういう、二元論と、因果応報が、ユダヤ社会の人々の考え方と生活にも、深く根を下ろしていた。
そんな扱いされたら、本人も、その家族も、辛すぎますよね。

そのように、二元論と、因果応報の読み方で、彼らに、罪人のレッテルを貼るのは、誰?
神様?いや宗教指導者たちでした。宗教指導者の言うことは、良いも悪いも、影響力が強い。
そうすると、町の一般人も、そうなんだ!あの人たちは神に忌み嫌われている!と町中の人からレッテルを貼られる。
家の中での、家族の会話は、
「あの人たちと交際しては、ダメよ。あの人たちと食事をするなんて、ダメよ、ダメダメ。」
親は子供にそう教える。それが、ユダヤの宗教文化として、出来上がることは恐ろしいことです。
こういうことは、ユダヤの国だけでなく、日本も含め世界中で今もあるのではないのでしょうか。
こういう二元論的な聖書の読み方や因果応報的な聖書の読み方は、果たして正しいのでしょうか。それがイエス様が教えておられる聖書の読み方なのでしょうか?

   民族としての誇り、アイデンティティーの剥奪
彼らは、ユダヤの民としての誇り、アイデンティティーを剥奪されていました。これも辛いことです。
どの民族も、民族としての誇り、アイデンティティー(自分の存在意義)を持つことは、生きていく上で大切なことです。

先日、TVニュースで、32歳の女性、生まれた時、両親の複雑な状況によって、日本人なのに、32年間、戸籍がなかった。自分は一体何者なのか、証明するものが無い。辛かったと思います。
戸籍がないために、結婚、就職、国家資格も取れなかった。自分はここに属していると誇りを持って主張できることは、生きていく上で大切なことです。

ユダヤの人たちにとって、民族的な、自尊心、誇り、アイデンティティーは、どこにあるのでしょうか?
自分は、信仰の父アブラハムの子供、アブラハムの子孫である。これが大切なようです。
つまり、血筋、血統、ルーツが大事なのです。
私は、アブラハムの血筋、血統なんだ。それが、安心、誇り、アイデンティティなのです。
だから、ユダヤ人は、系図を大切にする。
旧約聖書を読んでみると、至るところに、系図が記されている。誰々は、何歳で、誰々を生んだ。誰々は、何年生きた。その子供は、何歳で、誰々を生んだ。誰々は、何年生きた。・・・
私たち日本人には、ほとんど関心がない記述。でも彼らにとっては、非常に重要です。

新約聖書を見ても、新約聖書の最初は、ユダヤ人に向けて書かれたマタイ福音書。
最初に書いてあるのは、いきなり、アブラハムから始まる系図が書いてある。
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父・・・。と、信仰の父アブラハムから始まって、イエス・キリストまで、延々と系図が書いてあるのです。

余談ですが、新約聖書の最初が、いきなり系図だから、それで聖書が嫌いになる人多い。
新約聖書の最初に、もし異邦人に向けて書かれたルカ福音書が最初に置かれていたら、もっと、聖書に親しむ人が増えるのになあと、私はそう思います。

いずれにしても、ユダヤの人々にとって、自分たちのルールは、信仰の父アブラハム。自分はその子孫。これが、自分たちの誇りであり、アイデンティティーであり、自分の存在の拠って立つところなのです。
しかし、罪人とレッテルを貼られた人は、ユダヤ人でありながら、民族としての誇り、アイデンティティーを奪われ剥奪された人たちです。そして、罪人とレッテルを貼られることは、神に呪われているとされていた訳ですから辛いことです。
このように、彼らは、二重、三重の苦しみ、もって行き場のない苦しみの中におかれていました。

今日の聖書箇所に戻ります。
そのような、持って行き場のない、苦しみを抱えている人たちが、イエス様から、話を聴こうとして、イエス様の元へ、やってきた。
”罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。”〈15:1〉
イエス様も、喜んで、食事をしながら、お話をされたと思います。
”するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人(イエス)は、罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。”〈15:2〉イエスがしていることは、おかしいと彼らは思っていたのです!
でも、パリサイ人や律法学者たちとは、実は人々を罪に定め、人々を苦しめている張本人でした。
そこでイエス様は、パリサイ人や律法学者たちに向かって、譬えを話されました。
15:4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。

わたしにとっては、みんな、一人ひとりが、大切な羊なのです。わたしの元から、迷い出て、不安の中にいる羊が、一匹でもいたら見つかるまで探しに行きます。そして、見つけて戻ってきてくれたら、どんなに嬉しいことでしょう。
罪人と、レッテルを貼られ、苦しんでいる人が、わたしのところに来てくれることが、わたしにとって、どれだけ嬉しいことでしょうか。
いいですか。取税人という職業の種類によって、あるいは、盲人、癩病とか、病気の種類によって、神がその人を罪に定めているとか、その人が神に呪われているとか、全く関係ありません。
もちろん、職業や、病気の種類で、ユダヤの民としての誇り、アイデンティティーが奪われることなど、決してありません。その誇りを持って、生きてほしい。
アブラハムの祝福が、ユダヤ民族にあるなら、この人たちにも、あるのです。
この人たちこそ、神様に愛されている存在です。
イエス様は、イエスの立ち振る舞いを見て、つぶやいている、パリサイ人や律法学者たちに、
向かって、きっと、このように言い返されたのではないでしょうか。

ですから続けてイエス様は、パリサイ人や律法学者たちに向かって、このようにおっしゃいました。
15:7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。


悔い改めとは⇒神に立ち返ることです。

この人は神に呪われている、この人は罪に定められている、この人は神に赦されていないと決めつけられて、行き場のない苦しみの中で、もがき苦しんでいる人たちのうち一人でも、私のもとに
来て、そして、自分もアブラハムの子供なんだ、自分も神から祝福されているんだ、自分も赦されているんだ、と受け取ってくれるなら、私にとってどんなに大きな喜びでしょうか。

イエス様は、メチャクチャ嬉しいんです。
その喜びは、自分は生まれつきアブラハムの子孫であり、自分は神の国に入ることが約束されている、自分は罪に定められていない、だから安心だとおごり高ぶっている人たちのことよりも、
神様にとっては、はるかに大きな喜びなのです。
イエス様は、人々を苦しめているパリサイ人や律法学者たちに向かって、きっと、このように言いたかったのではないでしょうか。

今日のところを通して教えられることを3つ取り上げます。

1、イエス様が見ておられるように、自分を、そして人を見る。
イエス様は、罪人たちと食事をしていたけど、心は、目の前にいる人を、この人は、神に呪われているとか、罪に定められているとか、罪が赦されていないとか、見ておられなかった。
目の前にいる人を、神様に愛されている存在として、扱い、そのように接しておられた。
だからイエス様は、人から批判されても平気。人から文句を言われても動じませんでした。

聖書のガラテヤ2章には、初代教会時代のイエスの弟子ペテロの失敗が記されています。
ペテロが、エルサレムから、異邦人教会アンテオケ教会に行った時のことです。
ユダヤ人ペテロは、異邦人と、一緒に食事をしていた。ユダヤ人と異邦人が一緒に食事という、一見、麗しい光景。でも、ペテロの、異邦人を見る目は、古いままで変わっていませんでした。

エルサレムから、ユダヤ人が、アンテオケに来ることになった。
ペテロは、異邦人から引くようになり、異邦人とは食事をしなくなりました。
『ペテロは、異邦人と食事をしている』、という変な噂が広まるのではないかと、恐れたからです。
もし、ユダヤ人も異邦人も、神様から見れば、みんな愛されている、大切な存在なんだと心から思っていたなら、異邦人と食事をしているところ、誰から見られようと、自分がどう言われようと構わないはずです。
イエス様のように、堂々と、誰とでも食事をすれば良いはずなのです。
あなたは、どうですか?私自身の心が主に探られます。イエス様が人を見る目と心を養われたいものです。

2、自分の国、民族に誇りを持つ。
私たちの教会には、様々な国籍の方々がお越しです。
それぞれが、自分が生まれ育った国、自分の民族、それを愛し、誇りを持つことが大切です。
イエス様は、民族としての誇りを奪われていた人に、その誇りを回復されました。
イエス様は、ルカ19章で取税人ザアカイに
「あなたもアブラハムの子なのですよ。」と言われました。これは民族としての、アイデンティティーの回復です。
日本では自虐史観が強すぎるかもしれませんね?私たちも、それぞれ自分の国や民族に誇りをもって良いのです。その上で、他の国の人々をも大切にしていく。そのことは、私たちを造り、私たちを愛しておられる神様の御心に叶うことです。

3、神の祝福は、どこから来るのか?
神の祝福は、信仰の父アブラハムの血筋を通して訪れる。これがユダヤ社会の一般常識です。
でも、私たちはユダヤ人ではありません。
では、イエス様は、私たちに何と言われてるのでしょうか?
神様の祝福は、血筋によらず、才能、努力によるのではありません。
ただ、心のあり方が変わりさえすれば、それで良いのです。

では、どのように心のあり方をチェンジすれば良いのでしょうか?
心が、貧しくなれば良い。心が、乞食になれば良いのです。
神様の助けがなければ、私は一瞬たりとも生きて行けません。こういう、心の人こそ、神に祝福されているとイエス様は言われます。
心の貧しい人は、神に祝福されている。なぜなら、神の国は、その人のものだから。
その人こそ、神の愛の支配の中に生活しているのです。



「こころの貧しい人たちは、さいわいである(神に祝福されている)、天国は彼らのものである。」
〈マタイ5:3〉




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