2014年12月21日日曜日

真実な愛の心☆イエスの生涯よりⅠ



イエスキリストは、真実な愛を人々に現しながら、この地上でその生涯を送った。
真実な愛の心とは何か?
そこで今回は3シリーズに渡って、ある教会の牧師先生のメッセージを紹介する。

イエスキリストは、罪人たちと食事をしていたけど、イエスの心は、目の前にいる人を、この人は神に呪われているとか、罪に定められているとか、そのようには見ておられなかった。
目の前にいる人を、神に愛されている存在として扱い、そのように接しておられた。
新約聖書の当時、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして、イエス様の所に近寄って来た。
イエス様は彼らを受け入れて、食事をしていたようです。
それを見たユダヤの宗教指導者であるパリサイ人たちは、イエスは罪人たちを迎えて食事まで一緒にしているではないかと、つぶやいた。どういうこっちゃと言いがかりをつけていた
(シリーズ3より)


命、それとも規則



2014831日礼拝メッセージより  聖書箇所:ルカ福音書14章1~6節

最近、簡単な質問に、答えられない自分がいることに気づかされる。例えば次の質問です。
「人間の心の中に、生まれつき、愛する心はありますか?」この質問に、皆さんなら、どう答えますか?
先日、広島で集中豪雨が発生し、土石流で多くの方が被害に遭われた。その後、誰から、頼まれたのでも、強制されたのでもなく、多くの方々が、支援活動に加わっておられる。明らかに、人間の心の中には、生まれつき愛する心がある。与えられていると、考えられずにおられません。

でも私は、この質問に、口ごもってします。なぜなら、神学校で、ある教理を叩き込まれてきたから。その教えとは、『最初の人アダムは罪を犯して堕落した。自己中心になった。愛を失った。私たちはその末裔。』と教えられてきたから。でも、神学校で叩き込まれたこの教理、本当に正しいのだろうか?今更ながら、疑問を感じ始めている、今日この頃です。

ところで、どの国民にも、どこの民族にも、生活に深く根付いてる習慣や決まりがある。
例えば、私たち日本人なら、家に入ったら靴を脱ぐ、そんな風に国や民族によって、色々な生活習慣があるものです。 

聖書の文化的背景は、ユダヤ人の生活がベースになっています。
ユダヤには、安息日規定というがあって、これが当時のユダヤ人の生活に深く根を下ろしていた。
安息日は、金曜日の日没に始まり土曜日の日没までで、その日には何百という決まりや規則がありました。
ユダヤ人たちは、一生懸命その規則を守ろうとしていた。その規則を守ることが、神に忠実に生きる証しであると考え、疑いを持っていなかったのです。

ところが、イエス様の目には、それは的外れに見えていた。イエス様は、彼らの安息日規定の捉え方がズレている、そう感じておられたようです。
安息日論争と言いますが、イエス様と旧約聖書に精通していた律法の専門家であるパリサイ派の指導者たちとが、度々論争となっていたことが、聖書に度々出てきます。
今日は、『命、それとも規則』かを、聖書のルカ福音書14章から学びたいと思うのです。


14:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
14:2 そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。
14:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。
14:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
14:6 彼らは答えることができなかった。
 〈ルカ福音書14章1~6〉





イエス様は、パリサイ派のある指導者から、その人の家に食事に招かれたようです。
イエス様だけでなく、他にも何人かの人が食事に招かれていた。
その時、みんながじっとイエスを見つめていた。なぜでしょうか?なぜ、皆、イエスをじっと見つめていたのでしょうか? 

私は不思議だと思いました。本来ならこの場面、イエスの真正面にいる水腫を患っている人を、皆はじっと見るのではないかと思ったのです。というのは、当時、水腫という病気は、神に呪われた証拠でした。レビと言われる聖書の教師たちは、水腫は不品行の罰である性病の一種と呼んでいたようです。
その神に呪われているとレッテルを貼られた水腫を患った患者が、この食事の席にいるわけです。
水腫を患っている人は、招かれた客ではなく、招かれざる客だったと思われます。 
招いていないのに勝手に来たと、皆思っていたかもしれない。  
「なんで、あなたがここに居るの?」と、心の中で思いながら、食事に招いた人も招かれた人も、皆この人物をじっと見つめるのではないかと思ったのです。
しかし、この状況で皆は、水腫を患っている患者の方ではなく、彼の真正面にいるイエスをじっと見つめていた。なぜでしょうか? 

パリサイ派の人たちは、「イエスはどうされるのだろう?。今日は安息日だ。イエスは、この水腫の人を癒やすのだろうか? 」と興味津々、イエスをじっと見つめていた。
「もし、イエスがこの人物を癒やしたら訴えてやろう」と思っていたのかも。
(安息日にはどんな仕事もしてはならないという律法の規定があった。)

そこでイエスは、得意な質問をされた。
イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それとも良くないことですか。」と言われた。14:3
イエス様は、律法の専門家であるパリサイ人たちに、律法に対する質問をされたわけです。
しかし、彼らは黙っていた。
彼らとは、旧約聖書に精通していた律法の専門家たちです。だから、答えは簡単だと思う。なのに、彼らはなぜ黙っていたのか?。
答えを知らなかったわけではなかったと思う。いやむしろ、律法の専門家たち、宗教指導者たちだからこそ、答えることができなかったのかもしれないですね。

律法の専門家たちというのですから、彼らの関心は、『律法を守っているか、どうか。守れているか、どうか。』でした。
彼らにとっては、物事を規則に基づいて判断することが重要。それが自分の使命である、と考えていたのではないか。常日頃から。頭の中は、規則で、塗り固められていた。

神様のお心は何か?という発想ではないんですね。
普通に旧約聖書を読めば、神のお心がいたるところに散りばめられています。
困っている人、弱っている人、病気の人に目を留めてみなさい。そういう人たちを大切にしましょうと、神の心が書いてあるわけです。
今、まさに目の前に、水腫を患っている人がいる。旧約聖書を常日頃読んでいる彼らなら、『自分は、この人のために何ができるかなぁ。癒されたら良いのになぁ。』と、その人に憐れみの心が湧いてきても良いはずです。

でも、頭の中は、イエスは、安息日の決まりを守るのか、破るのか?イエスが律法を破って、この人を癒したら、すぐさま訴えよう、という正義感。すべての関心はそこにあるだけ。
だから、イエス様から、突然、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と、突然質問されても、答えることができなかったのでは。

イエス様の質問に対し、律法の専門家たちが黙っていたので、それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。〈ルカ14:4 
イエス様は、なんの迷いもなく、公然と安息日に、この水腫を患っていた病人をその場で癒やして、そして「帰りなさい。」と、お帰しになられた。
”イエス様は、「安息日に良いことをするのは正しいのです。」”〈マタイ12:12で、こうおっしゃいましたが、まさにこの時に、そのお言葉を実行されました。
イエス様は、規則よりも命を大切されました。その人自身を大切になさったわけです。




またイエス様は、律法の専門家たちに、もう一つの質問をされました。
14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
と質問された。今度こそ、答えは簡単ですよね。
自分の息子や自分の牛が、井戸に落ちたら、『ごめんね、今は、助けられないのです。土曜日の夕方が過ぎたら、助けますから、それまで、我慢してちょうだい。』そんなわけない。
すぐに助けます。すぐに、必死になって、引き上げます。答えは簡単です。でもイエス様の質問に、
14:6 彼らは答えることができなかった。(口語訳では、彼らはこれに対して返す言葉がなかった。)
つまり彼らは、痛いところを、イエス様から、ズバッと、突かれた訳ですよね。そういうことってありますよね。

さぁ、皆さん。本音が表れる所ってどこですか?いつ、どんな時に、本音が出ますか?
自分のことや自分の家族。自分の家族同様に大切に扱っているものとの関わりの中、そこに本音が出る。
そこに命を大切にする心とか、愛する心が自然と湧き上がって、それを心から実践する。
これは、私たちの人生にとって、生活にとって大切で、とても貴いことです。

では、何が問題なのでしょうか?
家族には命や愛を大事にし、家族以外の人には、これが決まりだから、これがルールだからと言って、規則や大義名分で決める。
このように使い分けることが問題なのではないでしょうか? 
自分のこととなったら、自分の親しい関係の人のことなら、愛と命を、当然最優先する。しかし、水腫を患った病人のような、招かざる客、つまり、他人事、机上の空論には、ルールや規則を優先し、規則を適用する。たとえ、死にそうな人が目の前にいても、命は後回し。
こういう使い分けを、エゴイズム、自己中心と言いますね、あるいは二心、英語ではダブルスタンダードと言います。
「あなたはどうですか?」と、私も含めて私たちの中に、使い分け、二心、ダブルスタンダードはありませんかと、イエス様は私たちにも問われているのではないでしょうか?



私たちは、こういう社会の中で、様々なルールや、規則に囲まれて生活しています。ねばならない、という大義名分があります。そういう中で生活していると、物事を判断する時、時として、何を基準に判断して良いか?分からなくなることがありますよね。
様々な出来事に、直面した時、決め手は、どこで判断すべきか?分からなくなる。そういうことはないですか?私もそういうことで悩んでしまうことがあります。

では、どうすれば良いのでしょうか?
本音は、どこに出るか?そこに着目すれば良いのです。
どういう時、命を大切にする心、愛する心が、自然と湧き出てくるか?そしてそれを実践しますか?
自分のことや、自分の家族に起こった素晴らしい事を、その時だけに当てはめるのではなく、全ての物事を決める時にも、それを適用するのです。
自分のことや自分の家族に何かが起こった時と、同じ心、同じ対処の仕方で、様々な出来事に直面した時、対処する。これがチャレンジではないでしょうか?

これは一つの例話なんですが・・・・。
あるクリスチャンのご婦人がいました。彼女は、自分が属している教会のことを、あそこがどう、ここがどう。あの人が・・・。不平、不満を抱いていた。
ある時、自分の娘さんが、結婚した。結婚相手は、牧師さん。
自分の娘が、牧師夫人として、嫁いだ。
自分の娘の、嫁ぎ先の教会は、教会員が10名~20名。
自分の娘の、嫁ぎ先の教会でも、教会員の不平不満がある。その不平不満牧師夫人である自分の娘に入る。
牧師夫人である娘さん、聞いてもらうところがないから、辛い思いを、自分の母親に電話して、聞いてもらう。お母さんは、どう変えられたか?自分の娘が仕えている教会のために、一生懸命、祈るようになった。何と言っても、自分の娘が仕える教会だから。そこに本音が表れる。
しかしお母さん、それだけでなく、自分が属している教会のためにも、一生懸命、祈るように変えられた。教会を愛し、心から教会に仕えるようになった。そして、すべての教会のために祈るようになった。

これは一般的によくある二心、ダブルスタンダードの例ですが・・・・。
ある人が、公務員のことを、良く思っていなかった。税金使って・・・。楽して・・・。
自分の息子から、電話がかかってきた。『俺、公務員試験受けようと思うのだけど、どうかな?』
『公務員?良いと思うよ。』これが本音。彼は自分の息子に関することで話した言葉に、自分の本音が表れた。
このように、使い分ける態度は、先ほどの聖書に登場していた、律法の専門家の態度。エゴイズム、自己中、二心、ダブルスタンダードだと言えるんですよ。
自分の息子に関する時に出た、自分の言葉が、本音。とするなら、その目で、公務員の方々を見る。公務員の方々は、私たち国民のために、市民のために、日夜仕えてくれている。有難いな~。そのように、変えられていけば良い。

まとめ
安息日規定を守ることを教えるパリサイ派の指導者であっても、自分の家族、自分の身内の命を愛し、優先していた。でも彼らは身内以外になると、律法、規則を当てはめようとしたり、使い分けていた。そのエゴイズムを、イエス様は、指摘されたというわけでしたね。

今日の聖書の場面では、招かれた人と招いた人がいた。招かれた人たちは、我先に上座に座ろうと、していたんですよね。

イエス様は、招かれた人に対してこう言われた。
自ら上座に座ってはいけない。末席に座りなさい。招いた人に、どうぞもっと上席にどうぞ、と言われたら、その時は、そうしなさい。そうすることによって面目が保たれます、と言われました。

また、イエス様は、招く側の人に対して、
14:13 祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足の不自由な人、盲人たちを招きなさい。
14:14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
招く人は、お金持ちなど、特定クラスの人たちばかりを招いて、交際するのはエゴの表れではないでしょうか?
この人を招き、この人を招かない、と区別する原理は、エゴイズムではないですか。

真の謙遜は、計算しない慎み。使い分けしない正直さにあります。
自分のことに関する時に出てくるその素晴らしい本音の愛を、どの場面にでも適用していく真実さ。
何よりも、神様がおられて、ちゃんと見ておられる。というその信仰さえあれば、それで良し、ということだと思います。



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