2014年4月6日日曜日

世界に広がる神の祝福*大草原の小さな家6*ローラ インガルス ワイルダー

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大草原の小さな町*ローラ インガルス ワイルダー


6*大草原の小さな町
長い冬の後、厳しい冬を乗り越えたインガルス一家に春が来たような順調な日々が続く。
メアリーが大学に行き、ローラが学校の先生の免許を取るまでの物語

ローラは、厳しい冬が通り過ぎ、再び、払い下げ農地に帰り、春の大自然の中で家族で暮らせるのを待っていたのだった。
やがて、インガルス一家は農地の家に帰り、太陽が暖かく輝き、春の耕作も始まったのだった。
メアリーとローラは、時々一緒に散歩をするようになるが、その中で、ふたりは心を割って話しをするようになる。

「姉ちゃんは、いつでも良い子になるように努力してたね」とローラは言った。....「あたし、そんなんじゃないよ」とメアリーが言う。「それはそうありたいと思ってやってはみるけど、あたしだって時々、凄く反抗的で意地悪な気持ちになることあるの。だからもしローラちゃんがあたしのお腹の中まで見ることができれば、あたしみたいになりたいなんて思わないよ。」....ローラは聞いてびっくりした。....
「あたしたちはみんな、どうしようもないほど、悪いのよ。そして、<<火の粉の上に飛ぶように>>悪に傾いているの」と、メアリーが聖書の句を引いて言った。「でも、そんなことどうだっていいよ。....それはね、あたしたちはね、自分が良いとか悪いとかって、そんなに自分のことばかり考えてはいけないって思うのさ」と、メアリーが説明した。....「あたしの考えていること、どう言ったらいいのかわからないけどね、そんなに考えることじゃなくて、―ただ心にわかることなの、神様の良さをはっきりと心の中にわかることなの。」....「神様は善である」ということは誰でも知っていることだが、メアリーには何か特別な方法で、そのことが心にはっきりわかっているように、ローラには思えた。....
「エホバは我が牧者なり、我、乏しきことあらじ。エホバは我を緑の牧場に伏させ、いこいの水際に伴いたもう。....詩編の中で一番これがきれいな句だと思うよ。...」<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>

神は絶えず最善に私たちを導いてくださる。と、信じ切ることは難しいかもしれない。
メアリーが一番きれいな句だと言った詩編は、ダビデが書いた詩編である。
ダビデは、幼子のように自分自身を主に委ねることができた人物だった。主の愛に信頼していたのである。
ダビデは、自分が良い時も悪い時も、神が決して自身を見捨てず愛してくださるということを経験からも知っていた。
もちろん、聖書から主イエスが愛に満ちた方であり、罪を赦す方であることを知っていることはとても重要である。
しかし、ダビデはバテシェバと姦淫の罪を犯した時に、ダビデはそれを隠さずに神の前で告白し、罪を赦されたのである。
その相手バテシェバとの間に、その時できた子は死んでしまったが、結婚した後に、ダビデとバテシェバとの間にできたその子ソロモンは、イスラエルの国の王ダビデの子として王位を継承することとなった。
その時、ダビデは、自分が良い時も悪い時も変わらずに神が愛してくださること、また、それにも関わらず最善をなしてくださる神の恵みをより深く知ったのである。
メアリーは、人にはどう見えても、自分自身の心の中が良い人間とばかり言えないものがあることを知っていた。自分自身の中の原罪を自覚していたのだった。
しかし、それにもまして主イエスが自分を愛してくださり、最善をなしてくださることも知っていた。
メアリーもダビデのように、絶えずありのままの自分を隠さずに神と向き合っていたのだろう。それが、メアリーが心で神をわかった要因の一つだったのかもしれない。
そして、その時からメアリーは、自分が良い人間か悪い人間かを悩むよりも、どんな時にも自分を愛し、最善に導いてくださる神を賛美するようになったのである。

メアリーが一番きれいだと言った聖書の<詩編23編>
"主は私の羊飼い。
私は乏しいことはありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私と共におられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え、
私の頭に油を注いでくださいます。
私の杯は、溢れています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。"
このく詩編23編>は、長い冬の物語の中で、ローラとキャリーが初めて学校に行った時に、先生が聖書を開き読み上げたが、ローラはこの詩編の言葉をもう一度聞けるのがとても嬉しかったと言っている。

独立記念日
その年の独立記念日に、父チャールズとローラとキャリーが町に出かけた時のことである。
父チャールズが歌い出し、次から次へと皆が歌出したのだった。

「我がゆかしき自由の国よ
我は歌う―
永遠に輝け、聖なる自由に
我が王、神よ!
護りたまえ。」<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>
この時、ローラは、出し抜けに、今までになかったまったく新しい考えが湧いて来たと書いている。
「神こそアメリカの王である」と。
その時、ローラは自分の心全体がパッと明るくなったように感じたと言っている。

「我らの父、我らの信じる神、自由の造り主―。」
神の法則こそが、自分たちに自由を与えることができる唯一の法則だと、ローラは言う。

"真理は私たちを自由にする"<聖書>
イエスキリストは、真理であり、道であり、命である。
神は、私たちをかたぐるしい規律で縛ろうなどとは考えておられない。むしろ、私たちに自由と解放を与えるために、神のひとり子イエスはこの世に来られたのである。

もちろん、法律を犯し、他の人に害を与えるようでは自分自身も、自分の周囲の人間も不幸であり、自由ではない。しかし、私たち人間は、どうしても自分自身では制御することができないような罪による欲望を覚えることもある。
救い主イエスの十字架は、そんな私たちの内にある罪の問題から解放し、私たちを自由にするための神の御業だったのである。
神を認めないということは、自分自身だけが自分の全てを自由にできると思っているということである。が、その時私たち人間は、自分中心に世界が回っているという間違った考えに陥りやすい。それが、自分が自分の王であり神であるということである。

しかし、ローラは言う。救い主イエスが自分の王である時こそ、私たち人間は本当に自由なのである、と。

金曜の夜の文芸会
ローラは、もう勉強に飽き飽きしていた。そんな時、金曜の夜に町の学校で楽しい文芸会が始まる。インガルス一家は、みんなで出かけて行く。
スペリング競争やジェスチャーゲームが行われ、父チャールズはスペリング競争では一番となり、ジェスチャーゲームではユーモアのある父チャールズのセンスは抜群だった。

新しい教会の日曜日
ちょうどその頃、町の教会の建物が出来上がり、理由は怪しいがローラはブラウン牧師のメッセージさえ、楽しんで聞いていた。
家に帰ると、父チャールズはローラとキャリーに、その日のメッセージの聖書の御ことばを尋ねるのだった。

ローラは、最も良いのは、メッセージの後に歌う<讚美歌18番>だと書いている。

最も良いのは、讚美歌18番だ。オルガンの音が響いてきたかと思うと、みんな元気に歌い出す。
我が杖を手に、我らは進む
見知らぬ国の、荒れし砂漠を
我が信仰は光輝き
我らの希望は強くたくまし、
「イエスの道」ぞ、我が旅のうた。
そして次に、響き渡るオルガンの音よりももっと大きく、声を揃えて力一杯歌う。
「イエスの道」こそ、我が祖父の道
神に導く、人の世の道
これぞ他になき、明るき世の道
踏みて行かん、我が「イエスの道」<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>

イエスキリストの足跡にしたがい、私たちが道を進んで行く時こそ、
私たちの神に対する信頼は光輝いて、
希望が私たちの心の中で強くたくましくなって行く。
イエスキリストにある道こそが、暗い夜も明るく照らす人生の旅路なのである。

日曜学校と朝の礼拝と、....また夜、教会に行くことで、日曜日は毎週、まるで飛ぶように過ぎていった。そして、月曜日にはまた学校がある。金曜日の文芸会が待ち遠しく、近づくにつれてますますそわそわしてくる。....
これでもまだ足りないかのように、婦人援助会は、教会の費用への一助として、大がかりな感謝祭のお祝いを計画した。....
教会の中の壁に取り付けてあるランプは、みんな灯がともされていた。ひとつのテーブルのまん中に、トビ色に蒸し焼きにされたブタが、見事な赤いリンゴを口にくわえて立っていた。....
ローラもキャリーもこんなにたくさんの食べ物を見たのは、まったく生まれて初めてだった。テーブルは二つともぎっしりだった。....一番素晴らしいのはあのブタだ。....
これはみんなローラには初めての経験だった。<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>

また、金曜日の文芸会では、父チャールズインガルスが、やってのけた。
彼は、友人たちとぼろぼろの服を着て真っ黒に顔を塗り、まん中の男がタップダンスを披露し、他の四人は口琴を弾く者、ハーモニカを吹く者、骨をカスタネットのように打ち鳴らす者、また、最後のひとりは手拍子足拍子を取る者だった。
歓声が上がり、みんな興奮と笑いで盛り上がったのである。
父チャールズは、骨を指の間に入れて 調子外れにカタカタ鳴らしていた黒人だった。

宗教強調集会
少しずつ大人になってきているローラは、この頃、町での色々な催しを思いっきり楽しんでいる。教会での催しもクリスマスの集会や祈祷会も楽しんでいた。

ローラたち家族は、宗教強調集会に出かけた。教会は混んでいて、ランプの明かりと人混みで、暑いほどにストーブが効いていた。
ブラウン牧師が讚美歌154番と言うと、牧師婦人がオルガンを演奏し、みんなで讚美歌を歌った。ローラたち家族は、激しい口調のブラウン牧師の説教よりも、オルデン牧師の静かな口調の方が好ましいと思ったが、それでも讚美歌は楽しんで歌っていた。

讚美歌154番
九十九は、安らかに
囲いの中に、いこうれど
群れをなし、子羊ひとつ
優しく賞ずる、飼い主はなれ
黄金の問より、はるかなる
草一つなき、荒れ山深く
丘をさまよう。
喜び祝え、主はその羊を、連れ帰りたもう!
<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>

救い主イエスは優しい羊飼いとして、囲いの中に安らかにいる99匹の羊を待たせておいてでも、いなくなった1匹の羊を探される方である。そして、喜び祝いながらその羊を肩に乗せ連れ帰られるのである。
この讚美歌は、次の聖書の<マタイ18:11ー14>をモチーフとしている歌である。

"人の子(救い主イエス)は、失われている者を救うために来たのです。
あなたがはどう思いますか。もし、誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さいものたちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。"<マタイ18:11ー14>

ブラウン牧師の長いお祈りに、ローラは目を閉じ頭を下げて静かに聞いてはいたものの、お祈りが終わって、みんなが立ち上がり、踊りたくなるような元気な感じの讚美歌を歌い出した時にはホッとしたと、ローラは書いている。

さわやかに明ける光に種まきて
照りつける真昼の野辺に種まきて
薄れゆく入日惜しみつ
おごそかに更けゆく夜半に種まきて
ああ、刈りいるるは何ものぞ―お
ああ、刈りいるるは何ものぞ。<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>

この讚美歌は、ソロモンが書いた次のく伝道者の書11:6>がモチーフになっていると思われる。

""朝のうちに種を蒔け。夕方も手を放してはならない。
あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか知らないからだ。
二つとも同じようにうまくいくかもわからない。<伝道者の書11:6>
涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取りの日を迎える。
風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている人は刈入れをしない。
慎重なばかりでは、時には恐れている時と同じ結果しか生み出せないかもしれない。
時には大胆に一歩踏み出してみること、あれもこれもやって見ることが必要な時もあるかもしれない。もしかすると、全て成功するかもしれないのだ。

「宗教強調集会が歌うことばかりだったら、ローラは大好きになったろう。」<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>
これが、宗教強調集会に出たローラの本心である。

「さあ、行こう!」父ちゃんはグレイスを抱いて通過を戸口の方へと歩いて行った。....
ローラが自分の外套の袖に手がかけられているのに気がついたのは、「お送りしていいですか?」と言う声がしてからだった。そう言ったのはアルマンゾ・ワイルダーだった。
<ローラ インガルス ワイルダー著*鈴木哲子訳>
彼が、後にローラの夫となったアルマンゾ・ワイルダーである。


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