真に自由に生きる道
“真理はあなたがたを自由にします。”〈ヨハネ8:32〉
私たち人類の歴史を振り返ると、暴君による支配、権力主義的な政治により、厳しい税金の要求によって貧困という問題が起こる中、自由が叫ばれました。
しかし、現代は、行き過ぎた自由、神に反した偽りの自由により、例えば不倫という性の自由により夫婦関係、家庭の崩壊をまねきました。これが、本当に自由な生き方なのでしょうか?
聖書は、イエスキリストこそが、道であり、真理であり、命であると言っています。イエスキリストこそが、真の自由の源なのです。
私たちは、聖書の中にある真理、すなわち生ける神の御ことばであるイエスキリストにこそ、真の自由が見いだされ、自由と喜びの中に生きることができるのです。
“もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。”〈ローマ7:20〉
罪は、本当には欲してないことを私たちにさせてしまうのです。私たちは、その中において不安、恐れ、空しさを感じ、時には自分自身の価値を喪失し、生きる意味さえ見失ってしまうこともあります。
聖書の御ことばは、私たちが真に自由に生きるための、神のラブレターなのです。
私たちが、神と神の御ことばを無視し、自分の罪や肉の要求に従って歩んでしまうと、自分は自由気ままに生きていると思っていても、意外に罪の奴隷として、罪の支配に身を委ねて生きてしまっています。
“罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物(贈り物)は、私たちの主イエスキリストにある永遠のいのちです。”〈ローマ6:23〉
私たちは、高価で尊く、神と人とに愛される者として造られました。神は、私たちひとりひとりを、神のイメージに似せて造られました。
私たちは、神の家族として造られ、天と地を創造された真の神を礼拝するために造られました。
人間で手によって造られた偶像を礼拝する事は、私たちの価値を低落させてしまいます。人間の手で造ることがてきる物が、人間以上の価値があるはずがありません。 私たちを神の似姿に造られるほどに愛してくださった、生ける神を礼拝する時に、私たちはイエスキリストによって、真の自由と栄光ある姿に変えられて行くのです。
“ しかし、人が主に向くのなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光やら 栄光へとして主と同じかたちに姿を変えられ行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。”〈Ⅱコリント3:16-18〉
自由への救いの道
“神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”〈ヨハネ3:16〉
神は、私たち人類への救いの道を備えてくださいました。
“それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエスキリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。”〈ローマ5:21〉
罪の支配は、死をもたらし、恵みの支配は、命の支配をもたらします。
“なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。”〈ローマ8:2〉
神の愛である、イエスキリストの恵みと義は、私たちに新しい命を得させ、罪の奴隷から解放します。
唯一まことの神であるイエスキリストを信じ礼拝して行くことが、罪の奴隷からの解放と真の自由をもたらします。そして、栄光の人生を生きることがてきるのです。
そういう意味で、イエスキリストの十字架の死と復活は、私たちが生きる上で、また生活していく中で密着した意義があります。
あなたも今、イエスキリストを信じ、真の自由のある解放された喜びと栄光の人生をつかんでみませんか?
“キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。”〈ガラテヤ5:1〉
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