2013年6月19日水曜日

山をも動かす信仰

愛なるイエスキリストの勝利と御支配



(イエスは)道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かたが、葉のほかはは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしようが。」

 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことがてきるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。

 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」〈マタイ21:
 

山は大きな問題を指し、いちじくは身近な小さな問題を指しているとも言えます。

 私がクリスチャンになって間もない頃、山に向かって動いて海に入れと言えば何て大きな凄い信仰だろうと思いました。その頃、私自身にとって大きな問題がありました。だが、その問題は、動き出してなかなか海に入りそうには思えませんでした。信じることができなかったのです。

 私の家から見える風景に小さな山がありました。それを見て、この山が動いて海に入るという考え方自体が非現実的であると感じていました。

 それから20年弱経って今の私はこう考えています。

 私達が日々生活している日常の世界、サラリーマンなら朝、会社に行き、夜遅くまで残業して帰る。

主婦は、夫と子供を送り出し家計を助けようとパートで働き、帰りにスーパーで少しでも安い物を買おうと朝、新聞の広告で見た品物を買って帰る「今日は底値よ」 

子供は学校へ行き、小さいながらも人間関係に悩み、帰れば塾へ行く。

 これが普通に生きているクリスチャンもノンクリスチャンもしている生活である。そして昨日、そこにあった生駒山は今日もそこに有り、六甲山もやはりちゃんとその場合に存在している。それが普通である。

 たがもし、ある朝起きると生駒山が無くなっていたり、生駒山が六甲山の場所に有り、淡路島の隣りに六甲山があったとしたらどうだろう?人々はパニックに陥るだろうどっちが北でどっちが南?なんだか方向さえわからなくなりそうである。

 私達普通の人間にとって、昨日そこにあった山が今日もそこに有るから安心できる。それが神に造られた人間の普通の感覚であり常識である。
 

 では何故、イエス様は、この私達の普通の感覚に反するような、もしかして、こんな例えではよけいに信じにくいんちゃうか?というような絵で教えられたのか? 

 イエスキリストの十字架の死と復活、父なる神は、イエスを死人の中から蘇られせることができたお方であると信じたことが、私達の信仰の原点です。 

 それと同じ不可能を可能にする御力をもって私達を助けて下さる。それだけでなく勝利を与えて下さる。 
〈マタイ福音書6:10〉でイエス様は、

御国(Kingdom)が来ますように。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。” 


 これは、すなわち問題がある中に、私たちが苦しんでいる状況のただ中に、王なるイエスキリストの主権と御支配が現されて行くように祈りなさいと言うことです。

山に向かって動き出して海の中に入れと言ってもその通りになるの信仰とは、王なるイエスキリストの主権と御支配が現され、主の勝利が現されて行くことを祈りつつ 楽しみに待ち望むことです。

いちじくの木が…”〔大きな問題〕山が動き出すのは信じにくいが、では〔小さな問題〕いちじくの木が枯れる位なら簡単に信じることがてきるのだろうか?

 いちじくの木が枯れる、これは自然界ではよくあることである。では、身近な問題、(いちじくの実は食べれる)は、信じやすいかというとそうでもない。

〈ルカ18:1-〉にあるやもめ女の例えでは、イエスは、失望せずに常に祈るべきことを人々に教えられました。

 ひっきりなしに願い求めなさい。日夜叫び求めなさい

 父なる神は、少し耳が遠いのか?そうではない。

 なかなか祈りが聞かれないと、時に私たちは、こう思ってしまう。私のような人間には神は目を留めてくださらないのだろうか?

 神は、天と地を造られたほどの偉大な方、こんな小さな問題は後まわしにされるのでは?、そう考えてしまうと、あきらめや失望感がやって来てしまう。だが、そうではない。 やもめ女とは、小さい女で誰にも人に知られていない名声も権力もない小さな人間である。

 神は偉大な預言者エリヤを、今まさに死のうとしていたやもめ女と小さな子供に遣わされたお方でもある。神は、私たち一人一人をちゃんと気にかけてくださっていることは間違いない。

あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。〈マタイ10:30

 天の父なる神とは、私たちの髪の毛一本一本を毎日数えておられるほどに、私たち一人一人に関心を持ち、繊細な愛で、日々愛してくださっている方である。

 弟子たちの獄中からの賛美は、四方八方ふさがりの中で、彼らは主をほめたたえていた。彼らは状況ではなく、神ご自身がどのような方であるかに目を留めたのである。

 今、あなたに何かの問題が立ちはだかっていますか?

 主は、どんなに解決が不可能に見えるような大きな問題であっても、偉大な御手をその問題の上に伸ばしてくださり、イエス様の主権と御支配を現され、必ず解決し、あなたに勝利をとらせてくださいます。

 

  

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