それをイエス御自身が、〈ヨハネ12:40〉で語っておられます。“「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、それはわたしが彼らをいやすことのないためである。」”
心で理解せず、回心せずとありますが、その当時のイスラエルの民に、主はこう言われています。
“そこで主は仰せられた。
「この民は口先で近づき、
くちびるでわたしをあがめるが、
その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。…」”〈イザヤ29:13〉
黄金律に、律法という言葉もありますが、イエスは律法についてこう言われています。“そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身の自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」”〈マタイ22:373-9〉
イスラエルの人々は、最も大切な神と人との関係、人と人との関係において必要な愛し合う心を忘れていました。
神の愛を離れ、神に背を向けた人間の状態でした。
イザヤ書の中に書かれてあるヒゼキヤ王が、主の目に正しい事を行いモーセの律法を守る為に出したそのおふれ結果が、〈Ⅱ歴代誌30:10〉です。
“こうして、近衛兵は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを物笑いにし、あざけった。”です。 彼らは、近衛兵ではなく、神を物笑いにし、あざけったのです。
イザヤ書に書かれているの〈9:1.2〉はこれと同じ地です。
“しかし、苦しみのあった時に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が照った。”
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