2013年6月9日日曜日

黄金律・イザヤ書よりⅢ



黄金律・イザヤ書よりⅢ




 イエスキリストは、最も暗闇が深いとも思えるような、ゼブルンとナフタリとの境にある湖のほとりの町から、宣教を開始して「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われました。
 ヒゼキヤ王の時代に、神の御言葉を拒み、主に敵対し、あざけった彼らの地にイエスは来てくださったのです。 それは、イエスキリストが、どのような罪人をも救われることを現しておられるのではないのでしょうか。
  死の地と死の陰にすわっていた私たち全ての者に、イエスキリストは光を現わされました。
そして、神のことばであるイエスは、彼らの中に住まわれたのです。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。〈ヨハネ1:14
  ここに、イエスキリストの罪人に対する愛が現れています。
 イザヤが、主から預かった主要なメッセージは、イザヤ書53章のキリストの受難です。
 神のひとり子イエスは、神である立場を捨てて、へりくだられて苦難のしもべとして私たち人類に仕えるために、人となってこの世に来られました。
 それは、十字架の死という苦難の道をイエスキリストが通られて、私たち人類に永遠のいのちへの道を新たに開かれるためでした。
 この主イエスキリストに信頼し、目を離さない時、私たちは黄金律を実践していけるのだと思います。
まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちの咎を
 彼に負わせた。〈イザヤ53:4-6 


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