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ヨ ナ
ヨナは、神よりニネベへの宣教命令を受けたが、イスラエルへの愛国心が強かった彼がそれを不満に思い、主の御顔を避けてタルシシュ行きの船に乗り込んだことから本書は始まる。
しかし、主は大風を海に吹きつけられ海に暴風が起こり、ヨナが乗り込んだ船は難破しそうになる。
船長や水夫たちは、ヘブル人ヨナが主の御顔を避けた為に、海と陸とを造られた神がこの激しい暴風を起こされていることを知る。 そこで船長と水夫たちは、創造主なる神を恐れつつ、仕方なくヨナを海に投げ込むのである。すると、海は激しい怒りを止めて静かになった。
主が大きな魚を備えてヨナをのみこませたので、ヨナは三日三晩魚の腹の中に居た。
【ニネベに遣わされたヨナの行く末】〈ヨナ1:17〉
“主は大きな魚を備えてヨナを飲み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中に居た。”
どおりで魚臭い、まるで魚屋のトロ箱のように生臭いぞ… 。
ヨナ、おまえもか!さっさと風呂に入れ瀨でないと保健所に通報するぞ!!
話を元に戻そう。真剣なことを書けば、
三日三晩、魚の腹の中にいたヨナが主に祈り求める(悔い改める)と、主はヨナを死とよみ、その暗い魚の腹から救い出された。
主は、ヨナの魂をよみの中に捨て置かす、復活させた。暗い中より光のある中に出されたのだ。
キリストの復活の象徴 ヨナが三日三晩、暗い魚の腹にいたとを、聖書はよみの魚の腹と表現している。
これは、イエスキリストがよみにくだり三日目に死人の中より甦られるまでの三日、よみにおいて、サタンより権威の鍵を取り戻したことを現しているばかりではなく、父なる神がイエスを三日目に復活させることをも預言しているのである。
エデンの園で、アダムとイヴがサタンにそそのかされて、食べてはならない木の実を食べてしまったことは、有名な話である。この時からサタンの支配が地球と人類に持ち込まれた。神の子であるイエスは、この時に入ったサタンの暗闇の支配を打ち破らなければならなかったのである。 そして、復活した救い主イエスは、エデンの園で失われてしまった永遠の命の世界を取り戻したのである。
したがって、クリスチャンは、礼拝の中でこう告白するのである。
【使徒信条】
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエスキリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり三日目に死人の内より甦り、天にのぼり、全能の父なる神の右の座に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず、アーメン。
ニネベに遣わされた時、ヨナはすでに経験豊富な預言者として活動していた。
ヨナは、アッシリヤ(ニネベ)が滅びないとイスラエルが危険にさらされると思っていたのだった。
間違った愛国心によってニネベの人々を悔い改めに導く事を拒んだヨナであったが、再び新しい心で宣教に向かった。
ニネベは歩いて三日かかるほどの大きな町であったが、ヨナは1日中行き巡って、このままではニネベは滅びると言って、悔い改めに導いた。
すると、ニネベの人々は、神の声に耳を傾け悔い改めたのだった。それて神は、ニネベの人々が悔い改めているのを見て、わざわいをくださなれかったのである。
しかし、この事はヨナを不愉快にさせた。祖国イスラエルの危険を思うと、神への不満を覚えたのだった。
そこでヨナは怒って神に祈って言った。「ああ、主よ。だから私はニネベには向かわず反対行きの船に乗り込んだのです。なぜなら、私は、あなが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かであり、わざわいを思い直されること知っていたからです。 主よ。今、どうぞ、私の命を取ってください。私は生きているよりは死んだ方がましてすから。」
ヨナは町の東のすみに、ふてくされて座っていた。
神である主は、ヨナの不機嫌を直そうと、一本のとうごまを生えさせ日陰を造って、ヨナを涼しい中で過ごさせた。
【小預言・ヨナ書の解き明かし】
“ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。太陽がヨナの頭に照りつけたので彼は衰え果て、ヨナは言った「生きるよりも死ぬ方が私はマシだ。」”〈ヨナ書3:7.8〉
ここを予言的預言という観点から解き明かすと、人類史上ビーチパラソルの発明で最も驚くのはヨナとなる。である。
まっ、ヨナが天国でそう思っているかどうかは別として、真剣な話を書けば、
神は、ヨナをさとしてこう言われたのだった。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたとうごまを惜しんでいる。
まして、わたしは、このニネベの十二万の人々と数多くの家畜の命を惜しまないでいられようか。」
ヨナ書を通して、私たちは、神は、悔い改める人々を決して軽しめられず、優しく導かれることを知るのである。
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