2014年2月7日金曜日

捨てるべき物となくてはならない物・パウロ


おもしろブログ特集

捨てるべき物となくてはならない物・パウロ


 映画 の「ショーシャンクの空に」のラストシーン近くで、主人公が刑務所の下水管の中をくぐり抜けて、最後に外に出た時に、天から雨が降ってくる。
 そして彼は、歓喜のなかで 解放感にひたるのだ。
 エリート銀行マンだった 彼は、奥さん殺しの濡れ衣を着せられて、長い間 囚人生活を送っていた。
 エリートの地位を奪れ、自分を陥れた人間達への長い間の憤怒を、天からの恵みの雨が、彼の体中についた糞土と共に 洗い流したのだった。
 そのような中で、エリート銀行マンだった 彼は、何がなくてはならないものであり、何を捨てるべきものだと思ったのだろうか ?。

 私たちの人生は、何を自分の心の中心に置くのか、何に重きを置いて生きるのかで変わってくる。
 例えば、お金や権力などは有る時は、周りの人に人気があるように自分が見えても、無くなってしまえば「はい さよなら」では、本当に価値があるとは言えない。
 「シヨーシャンクの空に」の主人公と同じように、ユダヤ人の中でのエリートだったパウロは、キリストのゆえに色々なものを糞土のごとく 思っていると言っている。糞土とは、 ウンチくんのことである。

 パウロは、血筋 すなわち、生まれの良さも誇りであった。今で言う家柄である。パウロは、行いにおいても、火のない教育を受けて育ったのだった。
 パウロは、エリート中のエリートであった。つまり、人に誇るもの、捨てたくないものがたくさんあったわけだ。

 そんなパウロを変えたものがあった。復活したキリスト との出会いがパウロを変えたのだ。
 パウロ は、捨てるべき物となくてはならない物について、こう言っている。
「私は、イスラエルのベニヤ民族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではバリサイ人、律法の義については落ち度のない者である。しかし、キリストを知る知識の絶大価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに私は全てを失なったが、それらのもの 糞土のごとく思っている。<ピリピ3:8>
 パウロにとって、捨て去るべき糞土とは古い自分であった。そして、なくてはならないものは、キリストを知る(信じる)ことであった。
 それが、救い主イエスの十字架の死と復活を信じて、新しくされたパウロの実惑だったのである。
“だれでもキリストのうちにあるならば、その人は新しく造られた者である。古きは過ぎ去った、見よ。すべてが新しくなったのである。”く第2コリント5:17(口語訳)>
 私たちの人生も古い物、捨てるべき物が無くなり新しい芽が出てこそ、実を豊かに実らすようになるのかもしれない。

ジョウカーシリーズ
 偽預言者イゼベルが、イスラエルの民を惑わしバアル礼拝を神殿に持ち込んだ。しかし、真の預言者エリア、エリシャ たちにより、バアルを神とする偽預言者たちは滅ぼされることとなった。そして、エフーは その後、偽預言者たちの神殿を公衆便所としたのだった。
 また、神は、イスラエルの民に、神が歩かれる場所イスラエルの土地からウンチくんを見えないように始末しなければならない と言われた。
 これらは本当に聖書に書いてある話である。これこそが聖書のジョウカーシリーズ、すなわちババシリーズだ。

エルサレムの12の門
 イスラエルの首都 エルサレムには、12の門がある。
 この12の門は、私たちが人生の中で出会い、通らなければならない門だと言える。
 その中に本当に糞の門というのがある。
①泉の門
救い主イエスは、命の泉である。私たちを憩いの水のほとりに導かれる。
私たちの霊も魂(心)も、飢え渇きが満たされる所である。
②羊の門
救い主イエスは、羊の門である。イエスは良き羊飼いであり、私たち羊を命がけで悪しき者から守り、緑の牧場に伏させて下さる方である。
③馬の門
重荷を下ろす所である。
”すべて、疲れた人、重荷を員っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、ヘリくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。
わたしのくびききは負いやすくわたしの荷は 軽いからです。〃<マタイ11:28ー30>
④水の門
水の洗いによるきよめ。聖書の御言葉によってきよめられることを表わす。
⑤魚の門
漁夫、人間を捕る漁師の門であり、伝道を意味する。
⑥召集の門
見張りの門である。霊的戦いに対して祈リで備える。
⑦古い門
古い人を行ないと一緒に脱ぎ捨てる。
罪の性質のカを、キリストが十字架にかかられたその御業によって、古き人を追放する。
私たちの古い人はイエスキリストと共に十字架で死んで、新しいいのちに復活したのである。
⑧谷の門
試練の時は、私たちの心の動機がきよめられる時である。
”たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。〃<詩篇23:4>
⑨糞の門
パウロが捨てるべき物を捨てたように、私たちも必要でないこの世の持ち門を捨てさることが必要。
⑩東の門(黄金の門)
イエスキリストが再臨した時、再び開かれる門である。

その他に、2つの門(エフライムの門・隅の門?)がある。

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