2014年3月12日水曜日

世界に広がる神の祝福*ナルニア国物語*CSルイス3


おもしろブログ特集
世界に広がる神の祝福*朝びらき丸東の海へ*CSルイス3


ナルニア国物語では、アスランは百獣の王ライオンとして登場する。
これは、救い主イエスキリストが、ユダヤ人の王として十字架にかけられたことに関係する。
ユダヤ人の王とは、旧約聖書で昔から預言されているユダの獅子(ライオン)のことであり、救い主である王を現しているのである。

クリスマスに、イエスキリストは、ダビデの町の貧しい馬小屋の中で、王ダビデの子として生まれたのだった。
そこには、ヨセフとマリヤ、羊飼い、東の博士たちしかいなかった。
東の博士たちは、王であるイエスに、黄金、乳香、没薬という高価で尊い物を捧げた。
これらは、当時、王に捧げるべき物とされている品々だった。
しかし、この没薬は、葬る時に死体に塗る習慣があり、後の日のイエスの十字架の死を生まれた時から表していたのだった。
救い主イエスは、私たち人類の罪を背負い、十字架で死ぬ為に生まれて来たのである。
そして、私たちすべての人類の罪が、イエスキリストを十字架にかけたのだった。
イエスが十字架にかけられ時、その罪状書きにはユダヤ人の王と書かれてあった。

"こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこに座って、イエスの見張りをした。
また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。"<マタイによる福音書27:35ー37>

しかし、イエスキリストは、死んだそのままでは終わらなかった。
没薬を塗られ葬られたが、三日目に墓の中から、よみがえられたのである。
その事の全てを見ていたのが、ぺテロたち始めユダヤ人の人々だった。
これらの全ては、旧約聖書にあらかじめ預言されていた。

ナルニア国物語でも、アスランは、罪をおかしたエドマンドの身代わりに、古い魔法によって魔女に殺されるが、それよりももっと古い魔法によって、復活する。
アスランは、海のかなたの国の大帝の息子、偉大な王、ライオンなのである。


朝びらき丸東の海へ
文句ばかり言い、ぶすぶすユースチスと呼ばれていた少年が、新しく生まれ変わる物語。
いとこのユースチスの家に遊びに来ていた エドマンドとルーシィの三人は、部屋にある絵の中に吸い込まれ、そこからナルニア国での冒険が始まる。
大人になったカスピアン王と彼らは、朝びらき丸という船に乗って、東の海へと航海に出る。......

アスランとユースチスとの出会い
ユースチスは、皆と一緒にいるのがいやになり、ひとり離れて行動する。
そのうちに竜のいる洞穴に入り込んでしまう。そして、ユースチスは眠っているあいだに竜になってしまった自分に気づくのである。痛みと孤独の中で苦しむユースチス。
そこへ、ライオンが現れ、ユースチスの体の竜の皮を脱がせた後で、ライオンの手が洋服を着せたのだった。アスランに出会ったことが、彼を変えたのである。
イエスキリストを信じる者も新しくされ、新しい命によって生きるようになる。古いものは消え去り、すべてが新しくなるのである。

僕は目を上げて、 僕の予想もしていなかったものを見たんだ。僕の方にゆっくりやってくる 大きなライオンだった。
そして不思議なことに、昨日は月が出ていなかったにもかかわらず、 ライオンのいるところには 、月光がみなぎっていた。....で、それはいよいよ僕に迫って来て、ぴたりと僕の目を見つめた。そして僕は、それが告げたことをしなけりゃいけないことがわかったから、起き上がって、その後について行った。ずるとそれは、山の中へ長い道のりを案内していく。そして僕たちの行くところにはいつも、そのライオンの上に、また周りに 月の光がさしているんだ。やがて 僕たちは、これまで見たことのない 山の頂に出た。その頂には、庭があったよ。木々や果物や なんやかやがあってね。その真ん中に井戸があった。......
その時、ライオンがこう言った―しゃべったかどうか分からないが-おまえは、わたしにその着物を脱がせなければいけない 、とね。.......
その後すっかり良い具合になって、なかで泳いだり、 バシャバシャ 水をはなかせたりし始めると、腕のあれほどの痛みがきれいに取れていることが、わかった。 その時に、僕は、どうしてだかそのわけを知ったよ 。僕が再び男の子にもどったんだ。......
「きみは、アスランに会ったのだ、と思うよ。」
「アスラン!」ユースチスが言いました。<CSルイス著*瀬田治二訳>

"だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。"<第2コリント5:17>

そのあと、ユースチスを、朝びらき丸の人たちは大喜びをして、迎えたのだった。
もちろん、アスランによって新しく生まれ変わっても、古い癖や習慣はしばらくは残っていたので、ユースチスには、新しい考え方や習慣を身に着けていく時間も少しは必要だった。

その後、朝びらき丸が、航海の途中、長い暗闇の中に入り込んだ時に光に導いたのは、一羽の鳥に姿を変えたアスランだった。
アスランは鳥となって現れた時から、船は太陽の光の中につき進み、青く輝く暖かい世界に出ることができたのだった。

一羽の鳩として、救い主イエスは、聖書の雅歌に登場する。
"イエスキリストは、輝いて、…その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。"<雅歌5:10ー11>
イエスキリストは、世の光として、暗闇にいる人々を光に導の中に導かれる。そして、憩いの水のほとりで、私たちをリラックスさせ安心して休めるようにしてくださるのである。

朝びらき丸が、航海の最後を迎えた時、太陽の光は何倍にもなっていった。
石舞台でのアスランのロープを切ったネズミのリーピチープは、東の海の果てで、真水を飲んで永遠に生きることになった。

イエスキリストは、命の水を豊かに与える方であり、彼を信じる者は、心から永遠に至る命の水が沸き上がるようになる。
"わたしが与える水を飲み者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が涌き出ます。"<ヨハネの福音書4:12>

また、聖書のエゼキエル書の最後には、死海という塩分が非常に強い海の水が、真水に変えられ、すべてのものが生きるとある。
"この水は、......アラバ(塩の海)に下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この水が流れて行く所はどこででも、そこに群がる生物は生き......、この川が入る所では、すべてのものが生きる。"<エゼキエル47:8.9>
このことは、イエスの復活の命の絶大な力を現わしているのである。

空と海が落ち合うところ
波の香りが豊かなところ
夢を疑うな、リーピチープ
求めるものを見つけるのは
東の海の果ての国
リーピチープは、彼の大好きなアスランの国に行き着いて、永遠に生きることになったのだった。

エドマンドとルーシィとユースチスの三人が、朝びらき丸とリーピチープと別れ、東の海の旅を終えた時、雪のように白い一頭の小羊に姿を変えたアスランが出迎えてくれたのだった。

そこで、アスランは、エドマンドとルーシィのふたりに、もうナルニアへ戻ることはないだろうと告げる。
そのことを悲しむルーシィにアスランは言ったのだった。
「それでも、あなたは、わたしに会うよ。......ただし、あちらの世界では、わたしは他の名前を持っている。あなたがたは、その名でわたしを知ることをならわなければならない。
そこにこそ、あなたがたがナルニアに連れてこられた本当のわけがあるのだ。.....」<CSルイス著*瀬田貞二訳>

ナルニア国物語の中で、アスランは百獣の王であるライオンとしてナルニアで子供たちに会い、子供たちがナルニアに戻らないことを伝える中で、アスランはライオンから雪のように白い小羊に姿を変え現れる。

聖書では、イエスキリストが十字架にかけられた時、そこにはユダヤ人の王と書かれてあった。ユダヤ人の王とは、ユダの獅子、すなわちライオンである。その意味は、全地の王である。
しかし、それと共に、イエスは罪を取り除く、小羊として十字架にかかられたのである。
旧約聖書では、神に罪が赦される為には、小羊をほふり、その血によって罪が赦される。ということが書かれている。
このことは、古くは、アブラハムの時代にまでさかのぼる。
アブラハムの時代より、いつか、アブラハムの子孫であり、王ダビデの子孫として、救い主が来られ、世界中の人々の罪の赦しの為に、神の小羊として血の代価を払うことが預言されていた。それが、救い主イエスキリストである。
だから、ナルニア物語の著者CS ルイスは、百獣の王であるライオンのアスランとして、ナルニアで子供たちに会わせ、ルーシイたちがもうナルニアに戻らないことを伝える中で、罪を取り除く救い主としての真っ白い子羊として登場させたのである。

ところで、ユースチスは、こちらの世界に戻ってまもなく、誰もが「ユースチスは変わって同じ人だと思えないくらいだ。」と言うようになったのだった。
この後、たくましく、優しくなったユースチスは、銀のいすで再び登場する。


【アブラハムの子孫、ダビデの子孫としてこの世に来られた神の子イエス】

世の罪を取り除く小羊イエス
アブラハムがイサクをささげようとした時、神自ら小羊を備えられた。
これは後に、神の子であるイエスが、人となってこの世に来られ、全人類の罪の為に、ほふられた小羊として、十字架にかかられ死んで葬られ、復活することを意味していた。
"アブラハムは(イサク)に答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」......
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。"<創世記22:8ー13>

全世界の王ライオン主イエス
ユダ族のダビデは、王の権威を持つようになると預言されていたユダ部族<創世記49:10>
"王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。
ついには、シロ(救い主イエス)が来て、国々の民は彼に従う。"
ダビデ王の子孫から全地を統治される方、王の権威を持つユダの獅子(ライオン)であるイエスは誕生された。

ライオンと魔女の中に出てくる
世のはじめからの魔法は聖書の<創世記2:15ー17>がモチーフであり、その解決は、聖書の<創世記3:14ー15>がモチーフである。そしてこの御言葉は世の始まりより前からのもっと古い魔法である<エペソ1:4ー7>をも意味している。

世の始まりからの魔法のモチーフの御言葉<創世記2:15ー17>
"神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べて良い。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」"
これが、神が最初の人アダムに与えられた掟だった。魔術師のおいの物語の中でも、ディゴリーがアスランに命じられリンゴの木の実を果樹園に取に行く時に、この創世記の御言葉がモチーフとして使われている。

<創世記3:14ー15>は、その神の掟を破ったアダムに神が言われた救いのご計画、すなわち、全人類の贖いの約束の基礎となっている御言葉である。
"わたしは、おまえ(悪魔)と女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼(イエス)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。"<創世記3:15.16>
不思議なことに、メシヤであるイエスキリストが完全に勝利する前に、蛇であるサタンは、イエスのかかとにかみつくと書かれているのである。
しかしまた、イエスは蛇サタンの頭(権力・力)を、足の下に踏み砕くと書かれてある。

ライオンと魔女の物語の中でも、一見魔女が勝利したように見えながら、実はアスランが完全に勝利している。
それと同じように、救い主イエスキリストは十字架にかけられ殺されたが、復活によって勝利するのである。
つまり、イエスキリストが、私たちの罪を負い、私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、復活されたことによって、イエスを信じる者は、悪魔という死の力を持つ者から解放されることになったのである。

神は、<創世記3:15>にある永遠の神の救いの計画を遂行するために、まず、アブラハムを選び、後にダビデを選ばれた。
そして、アブラハムの子孫、王ダビデの子孫として、また、<創世記3:15>に書かれてある女の子孫として乙女マリヤより聖霊によって、イエスキリストはクリスマスにユダヤ人の王、すなわち全地の王ユダの獅子として誕生された。<マタイ2:2>
そして、神のひとり子であるイエスは、罪を取り除く小羊として十字架にかかられ、復活されたのである。

世のはじまりより前からのもっと古い魔法であるモチーフの御言葉<エペソ1:4ー7>
"神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようとあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方(イエス)にあって私たちに与えてくださった神の栄光がほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血によるあがない、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。"<エペソ1:4ー7>
つまり、神のこの地球や宇宙の創造の目的は、御子イエスにあって神の栄光がほめたたえられる為だと、聖書には書かれている。

ライオンと魔女の物語の中では、世のはじまりからの古い魔法を、世のはじまりより前からのもっと古い魔法が、アスランが復活することによって打ち破る。
これは、神は全知全能であり、全てをご存知じであるということである。

ナルニア国物語の中での魔女の存在は、聖書では創世記の蛇サタンを指している。
サタンとは、世のはじめよりさかのぼれば、堕天使ルシファーを指している。
神は、蛇サタンというものに、救いの創始者であるイエスによって完全に勝利することをあらかじめ定めておられたのである。
そして、イエスキリストは十字架の上で、王者ライオンとして、また、世の罪を取り除く小子羊として、サタンの悪しき力に完全に勝利されたのである。

【ユダ族から出た獅子・ダビデの根また子孫イエス】
<黙示録5:5>には、イエスはユダ族から出た獅子、ダビデの根として、
<黙示録22:16>には、イエスはダビデの根であり、また子孫として書かれている。

"見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、七つの封印を解くことができます。"<黙示録5:5>
"「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした、わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」"<黙示録22:16>

『根』の意味として、これらのことが考えられる。

1.ダビデ契約の基(根)にあるアブラハム契約は、アブラハムとその子孫であるイエスキリストに告げられたものである。
"ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことをせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。"<ガラテヤ3:16>
アブラハム契約の約束を、アブラハムと共に受けたのは、約束の子孫イエスキリストである。
神がアブラハムに与えられた約束の祝福を、イエスはアブラハムと共に神によって相続することを約束されていたのである。
イエスは、ダビデ契約の基となった、ダビデ契約の根にあるアブラハムの契約の約束を、すでに神によって相続され、また、その後、神によってダビデ契約もダビデと共に受けられたのである。
(アブラハム契約、ダビデ契約については、当ブログ2013.12.25日参考)

2.イエスキリストは、神のひとり子であり、神の長子である。
ダビデ契約とアブラハム契約の基(根)にあるのは、神がエデンの園でアダムに約束された<創世記3:15>に書かれている神の永遠の救いのご計画である。
神のひとり子であるイエスは、御自分を低くして、人となって「女の子孫」としてこの世に来られ、十字架の死という苦しみを通して、人類の為に救いを全うしてくださったのである。

神は、イエスをよみがえらせ、このイエスを君とし、救い主としてご自分の右に上げられました。神は、キリスト・イエスにおいて神の永遠の救いのご計画を成し遂げられたのです。<エペソ3:11より>

3.ダビデの根というのは、ユダ族から出た獅子、イエスキリストの十字架の死と復活による勝利と、王なるメシアとしての主権を現している。

イエスキリストは、肉によればダビデの子孫として聖霊によって乙女マリヤより生まれたが、しかし、イエスはダビデより先におられた方であり、ダビデの主なのである。
また、全ての主権はイエスにある。

"「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスキリストに言った。「ダビデの子です。」
イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右に着いていなさい。」』ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。"<マタイ22:42ー45>

『ユダ族』ー王権、その国の頭であり統治者の杖を持つ最高権威者が、ユダ族から出てくるという預言の言葉が与えられた部族であり、直接的にはダビデを指し、神の真の御心としては王なるメシアイエスを指していた。
"王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従わう。"<創世記49:10>
’ついにはシロが来て’は、王なるメシアである救い主イエスが来て、国々の民、すなわち全世界の人々を愛によって従わせることを意味していた。
全世界の人々を救う為に命をも捨てられ、十字架にかかられたイエスキリストこそ、全地の王にふさわしい。
そして、神は、イエスを死者の中からよみがえらせ、聖なるシオンの王として立てられたのである。<詩編2:6ー9>

ダビデ契約は、イエスキリストの十字架の死と復活によって、そのほとんどが成し遂げられてはいるが、この全世界の王としてイエスキリストが再臨される時に、完全に実現される契約なのである。

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